エイリアンと彷徨する血のかよった泥のかたまり

 本記事は、日頃からお世話になっているはとさん(@810ibara)アドベントカレンダー企画 #ぽっぽアドベント2021(21日目)のための書きおろしです。
 はとさん、毎年企画お疲れさまです。昨年は迷惑かけてすみませんでした。あと、私が入院中にふにゃふにゃになっていたときに、同人誌を出すのを手伝ってくれてありがとうございました。来年も仲良くしてやってください!

 

   ☆

 

     1 泥人間の思考実験

 こんな思考実験がある。
 ある人が、沼のそばを歩いているときに雷に打たれて死んだ。同時に、もう一つの雷が沼へ直撃した。すると、沼にたまった泥と雷が化学反応を起こして、死んだ人と原子レベルでまったく同一の生物“泥人間”が生み出された。泥人間はすたすたと沼を這い出して、死んだその人の生活を引き継いだ。
 私にこの思考実験を教えてくれたのは、大学の同期のYという奴だった。Yは、私に対していやみを言いたくてこの話をしていた。「おれはこういう哲学の問題に深く悩んでいるのだけれど、それに比べておまえはなんの悩みもなさそうでいいよな」というような文脈だった。
 私は、C級ホラー映画みたいな設定の思考実験について本気で悩んでいるYのことをかわいそうに思った。だから、「そうだね、私は自分が泥から生まれたかもしれないだなんて悩んだことはない」と答えた。
 ちなみに、そのころの私が悩んでいた問題はこんなのだった。
「もしも目の前に壁があって、その壁に消えてほしいとき、私はどういう言葉で話しかけるべきだろう?」

 


     2 血液型性格診断

 血液型性格診断がいかに信じるに値しないインチキかということを語る人が増えて、世の中はすこしよくなった。その言葉に救われた血液型ハラスメントサバイバーも大勢いたに違いない。
 さいわい、私は「血液型性格診断は確証バイアスの産物」と言い切る人々に囲まれて生活してこられたから、血液型をそう気にせずに生きてこられた。飲み会で「血液型、何ですか?」と訊かれても、「当ててみて」と答えられるくらいのんきでいられた。当てられても外されても、どうでもよかった。血液型や星座や誕生日が自分のアイデンティティに深く関わっているとは思わなかった。
 昨年の明後日、私は骨髄移植をした。25年間親しんできた自分の骨髄を放射線抗がん剤でぶっ壊したあと、他人の骨髄を移植された。この経過を経て、私の血液型はB型からA型に変わった。
 移植前、医師から「移植をすると血液型が変わります」と宣告されて、私はまあまあショックを受けた。骨髄移植をしなければ余命5年という状況下で、血液型が変わることなんてまったくどうでもよいことのはずだったのだけれども。でも、私はしっかり落ち込んだ。私は、B型だった自分がけっこう好きだった。だから、A型になっても同じだけ自分を好きでいられるか確信が持てなかった。
 それにしても、骨髄を移植しただけでなぜ血液型が変わるのだろう? ここで、高校生物の知識を思い出してもらいたい。高校で生物を履修しなかった人は、中学校の理科の知識でもいい。
 血液は骨のなかにある骨髄という細胞で作られる。血液型は、骨髄の型で決まる。よって、B型の血液を作る骨髄を壊してA型の血液を作る骨髄を移植すれば、骨髄はA型の血液を量産し、血液型はA型になる。これが、骨髄移植で血液型が変わるメカニズムである。ジョナゴールドの枝にはジョナゴールドが生り、サンふじの枝にはサンふじが生る。ジョナゴールドの木にサンふじの枝を接木すれば、それはサンふじの枝だからサンふじが生るというわけだ。
 では、私のアイデンティティ・クライシスの物語に戻ろう。
 私の不安を察してか、社会福祉士のKさんは「血液型性格診断は嘘っぱちです」と断言してくれた。
「血液型が変わっても人間の性格は変わらないことは、この仕事をしていたらよくわかります。血液型が変わったからって、別の人間になるわけじゃありません」
 私は「そりゃそうですよね~」と笑いながら、内心ではまだおののいていた。たとえ血液型性格診断がまったく信じるに値しないインチキだとしても、そうなのだとどれだけ証明されても、証明している人たちは結局無傷で、テセウスの船になるのは私だ。私の一部が変わることは、ゆるがぬ事実。そして、それは一度変わるととりかえしがつかない。
 気持ちのバランスをとるために物事のポジティブな側面を見出そうとして知恵を絞り、やっと、「まあ、両親がB型とO型だから、せっかく変わるならA型かAB型がいいよな」と思った。両親と私の血液型のずれを知って「えっ?」という顔をするつまらない人を、鼻で笑ってやるのは楽しそうだ。
 変わるはずのないものも変わることがある。私は知らぬうちに沼のそばを歩いていたらしい。雷は突然頭を直撃し、私は死んだ。おもむろに沼から這いあがったA型の泥人間は、すたすたと歩きだして、もう私の生活を引き継ぎはじめていた。

 


     3 髪

 入院前、髪を染めることにした。
 私は美容院に行き、とりあえず、青色にしてもらった。
 2週間ほどして色が抜けたら、薬局でカラー剤を買ってきて緑色にした。
 さらに2週間ほどして色が抜けきったら、赤色にした。
 入院中は染髪できないので、どんどん色が抜け、金髪になった。
 そのあと、2㎜の丸刈りにした。
 その髪が1センチほど伸びたころ、全身に放射線を浴びて、抗がん剤を点滴された。
 すべての髪が抜けきった日、無菌室のトイレで鏡を見て、「おお、こりゃまるでひざこぞうだ」と思った。

 


     4 TENET熱

 骨髄は生着した。つまり、移植は成功した。私は2ヶ月間ほど経過を観察され、2月半ばに退院した。
 骨髄移植という処置のいちばん妙なところは、入院前よりも退院後のほうが具合が悪そうになるところだ。体は一日中横にしていないとだるく、15分以上座っているとなんとも言えない苦しさに憑りつかれて泣きたくなった。食事は消化にいいものしか食べられないので、だいたいおかゆか、ホワイトシチューか、どん兵衛(きつね)だった。
 元気になるために入院したはずなのによれよれになって退院してきたら、家族には心配げな目で見られる。私はすこし無理をしてでも元気そうにふるまおうと思って、夜はリビングで映画を観ることにした(入院前は、夕食のあと毎晩のように映画やドラマを1、2時間観ていた)。しかし、体を起こしておくのさえ苦痛なのに、映画を観るのなどほとんど不可能だった。「TENET」なんて観た日にはいよいよわけがわからなかった。「TENET」鑑賞の翌日は、無理がたたったのか熱を出した。完全に知恵熱、いやTENET熱だった。
 では、体を横にしておきさえすればいいのか? と考えて、15分に1度ベッドに寝転がる作戦を編み出した。その作戦を使って、同人誌を執筆しようとした。もちろん、この作戦は失敗した。体は苦しくならないが、15分ごとに体を動かしていたのでは集中できない。だいたい、放射線治療のなごりで脳味噌がろくに回転しないのに、どうして4万文字越えの小説なんか書けるだろう。結局、これも映画鑑賞と同じで、つまりは暇つぶしというていを装った苦行だった。
 なぜそうまでして映画を観ようとするのか。なぜ同人誌を執筆したがるのか。自分でもわけがわからなかった。もしかすると泥人間は「そら見ろ、私は立派に生活を引き継いでいる。私こそが私なのだ」と主張しようとしていたのかもしれない。
 退院から1ヶ月後、社会福祉士のKさんが「その後、どうですか」とメールをくれたとき、私は「しんどいです」と返信した。
「自分の体の限界がまだよくわかっていないみたいで、できないことまでしようとするので、しんどいです」
 Kさんは私の精神状態を気遣ったあと、「しっかり休んでくださいね」と言ってくれた。
「本当に、そのとおりだぞ」と私は思った。

 


     5 ワニのロキ

 こうして記憶を遡ってみると、私の意識は6月の半ばごろまで靄がかったぬるい世界をたゆたっていたということがわかる。
 退院からおよそ4ヶ月後。ようやく私は映画を観ても小説を書いても熱を出さなくなった。新刊も根性で2冊出した。血液型性格診断のA型の診断結果とB型の診断結果を比べて「どっちがより自分っぽいか」を考える遊びも思いついた。いくつかの診断で試してみたところ、どちらの結果もある程度自分っぽかった。なるほど、よくできている。
 そのころ、ディズニー+に加入した。ディズニー+というのは、ディズニーが提供している動画配信のサブスクリプションだ。加入のきっかけは、Youtubeで「ロキ」というドラマのCMを見たからだった。
 「ロキ」はMCUの人気キャラクター・ロキがメインの単独ドラマだ。私はそれまで、特別ロキを推していたわけではなかった。が、「アベンジャーズ インフィニティー・ウォー」でああいうことになったロキが活躍するドラマなら、これは絶対に観なければならないと思った。
 ロキ。いたずらの神。北欧神話では、ゆきずりの馬とセックスをして8本足の子馬を産むというトンチキ設定がある。公式獣姦キャラクターである。もちろん、MCUのロキは馬とはセックスしない。トム・ヒドルストンの顔をしていて、ヨトゥンヘイムという星に生まれ、アスガルドの王子として育ち、魔法が使える。多くのSFアクション映画の悪役と同様に、コスプレチックなレザースーツを身に纏って、あまりはっきりしない動機で地球を侵略する。あと、何度死んでも、尋常でない生命力で生き返る。本人は神を自称しているが、つまりは、地球外生命体。エイリアンだ。
 ドラマ「ロキ」では、ロキはシャツにネクタイ、スラックス姿で登場する。かつてはチタウリというウリ科っぽい名前の敵と結託してNYを破壊していたエイリアンが突然ただの青年になるというギャップがドラマ「ロキ」の魅力の片輪だったと思う。もう片輪は、確固たる世界観に基づいて造られた、凝ったセット。まるで、精巧なロキ人形を使って「もしも、ロキがただの青年だったら?」という思考実験の徹底的な証明を見せられているような感じだった。私はディズニーの策略にまんまとはまり、1ヶ月の無料体験期間を過ぎてもドラマを観続けた。
 このエッセイをちょっとでもましな形で成立させるためには、もうすこし「ロキ」の物語の内容に踏み込んで話をしなければならない。具体的には、ロキとTVAとの戦いの話だ。
 ドラマのなかで、ロキはTVAという組織と戦う。TVAというのは「時間変異取締局」の略称である。ひとときの休みもなくぐにゃぐにゃと変異する“時間”という樹木を、枝葉を剪定して、理想的な形に整える庭師のような存在だ。余分なものを取り除いて正しい形を保つその仕事は、いいことのようでありながら、そのじつ優性思想によく似た考えに下支えされている。
 剪定される枝葉にも、人生はある。枝葉のうちの1本であったロキは、捨てられたほかの枝葉のロキたちと出会い、自分が何者かを考えることになる。枝葉のなかには、ワニの姿をしたロキもいる。あるいは、ロキの自覚に芽生えたワニか?
 ワニは生まれたときから、ワニのはずだ。ということは、ロキの本質は容姿や出自にはないということだ。たとえナイル川に生まれても、ロキにはなれる。しかし、なぜ、ワニがロキの自覚に芽生えたのか? そもそも、そいつは本当にロキなのか? でも、緑色だし、ツノが生えているから、ロキだ。むしろ、ワニロキのほうがよりロキの本質に近いとしたら? いや、待て。そのロキの本質は、誰が決めた? 神か? ロキか? ワニか? 先に生まれたのは、鶏? 卵? それとも、ワニ? ワニなのか? けれど、だが、But……
 「ロキ」を完走したあとに、映画「マイティ・ソー」シリーズを観た。ロキが分身の術を使えるのは、彼のアイデンティティがばらばらに砕けているからだろうなと思った。何十人にも分身したロキは、兄のソーを見下げて高らかに笑う。あたかも、アイデンティティが定まらないことこそが己の自由の証明であるかのように。
アイデンティティ・クライシスは、ロキにとってなんでもないんだ」と私は思った。
「それどころか、それは彼の生きる目的で、強みで、本気で遊べるゲームですらある」

 


     6 天然パーマ

 骨髄移植をして目に見えて変わったのは髪質だ。耳の上のひざこぞうに毛が生えはじめてしばらくすると、それが奔放なうねりを持っていることに気がついた。
 私は生まれつきのストレートヘアだったが、人生の26年目からは100人が見たら100人が天然パーマと呼ぶ髪質になった。社会福祉士のKさん曰く、こういうことは、理屈はよくわからないがたまにあるらしい。私個人は、放射線を浴びたせいで遺伝子情報が破壊されたからではないかと思っている。
 これを機に、私は髪を伸ばしてみることにした。できればハーフアップにできるくらいまで伸ばして、自分がどんな姿に見えるのかを見てみたいと思ったからだ。
 髪を伸ばしはじめてから、身だしなみに対する意識が変わったのか、すこしおしゃれをするようになった。最近は欠かさずネイルを塗っている。風呂あがりには大島椿油を塗ってヘアケアもしている。髪に油を塗るときは「油を注がれた者だ~」と言うという習慣もつけている。こうしておけば、いつ弟子に裏切られても大丈夫だ。
 夜、リビングでネイルを塗っていると、病院の無菌室を思い出す。この刺激的な色彩と体に悪そうな香りは、あの完璧な無臭の、薄暗い蛍光灯の明かりに満ちた、狭く、暖かく、とりとめもなく、崇高で、倫理的で、がらんとしていて、あらゆるものが備えられた、エアコンのファンの音が一日中聞こえる単調な部屋には、決してありえなかった。かといって、無菌室のことを悪く言いたいわけではない。無菌室での生活は楽しかった。ごみ箱に手が届かないもどかしさも、ミニカップ麺の待ち時間を待つあいだに観るテレビの騒がしさも、プラスチックカップにたまる尿の温かさも、あの瞬間を逃せば一生味わえない。あそこには、時間も、季節もあった。外で雪が降ると、必ず誰かが教えてくれた。雨の日は看護師さんから雨のにおいがした。あの部屋から見える朝日の美しさを知らない人たちは、まぶたをつぶってくやしがるがいい。

 


     7 リジェネレーション

 8月。私はかねてより「いい」と噂だったドラマ「グッド・オーメンズ」をついに履修した。そして、ご多分に漏れず「いい」と思った。
「いやあ、いい。なにせ、デイヴィッド・テナントがいい」
 藤原竜也の出演作品を完走した2019年以来、これといって観たいと思う俳優に出会わなかった私は「いい機会だし、デイヴィッド・テナントの出演作品を全部観ようかな」と思い立った。まずは、「ステージド」と「ステージド2」を観た。それから、「ジェシカ・ジョーンズ」を観て、「バッド・ディシジョン」を観て、「DES」を観た。「フライト・ナイト/恐怖の夜」は、昔コリン・ファレルの出演作を観漁ったときに3度観たが、もう1度観て「やっぱこの話はガバガバやな~」と思った。「ハムレット」と「リチャード二世」のDVDをアマゾンで注文して、届くまでのあいだに観るものがないので、とうとう「ドクター・フー」に手をつけた。
 知らない人のために解説しておくと、「ドクター・フー」はイギリスで50年以上放送されているテレビドラマシリーズである。全話を観ようとすると800話くらいある。「ドクター・フー」を観ようと思い立つことは、「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズを2晩で全部観ようとすることとか、夏休み中にこち亀を全巻読もうとすることに近い。ようするに、だいぶ覚悟がいる。
 なかなか覚悟がつかなかった私は、ひとまず、いちばん話の要点がまとまっていそうな「ドクターの日」というエピソードをおっかなびっくり観た。ふりかえって考えると、このチョイスは選びうるなかで最善だった。その後は4週間ぶっとおしで、デイヴィッド・テナントが主演を務めているシーズン2~4の計3シーズンを観た。
 「ドクター・フー」の物語は、簡単に言えばSF版シャーロック・ホームズである。ホームズ的立場の“ドクター”とおおむねシーズンごとに変わるその相棒(なぜか決まって美女)が、怪奇現象を解決する。怪奇現象の原因は、たいていエイリアン。ドクターは多くの場合、人類に味方してエイリアンと戦ってくれる。が、彼自身は人類ではなくエイリアンだ。
 ドクターはエイリアンだから、人類よりもずっと長生きで、ほぼ不死身で、おそらく人間がドラマの存続を望む限り生き続ける。そういう前提があるおかげで、ドクター役の俳優はある程度の期間を務めると襲名式に代替わりしてゆく。この交代の儀式がリジェネレーションと呼ばれている。作品内の文法で言えば、リジェネレーションは瀕死状態になったドクターが自分の体を治すために使う治療法だ。体のあらゆる機能をリセットし、不死鳥のごとく新しい姿で生まれ変わるのだ。
 9回目のリジェネレーションを迎えたとき、彼はデイヴィッド・テナントの顔になった。ドクターは顔が変わると若干性格が変わる。10代目ドクターは、人類のルールではなく宇宙のルールで動くドクターだった。そのことがよくわかる私の好きなエピソードが、シーズン3に放送された「ダーレク・イン・マンハッタン」とその続編の「ダーレクの進化」だ。
 “ダーレク”はいわばドクターの宿敵のような存在のエイリアンで、ダーレク族以外の生物を本能的に殺してしまう。ドクターとの戦いによって、ダーレク族は数を減らし、絶滅寸前になる。そこでダーレクが考案したのが、人類とダーレクの交配によって新しい種族“ヒューマン・ダーレク”を生み出すことだった……と、ここまで聞くと、人類の一員としては「頼むからよそでやってくれ~」と言いたくなる。しかし、ドクターはまったく真逆の反応をする。ダーレクの計画を手伝おうとするのである。
 ドラマを観ていた私は「いや、そこは阻止してくれや!」と盛大にツッコんだ。が、すぐに真顔になって、「待てよ、宇宙単位で見たら絶滅寸前のダーレクを守るほうが重要か?」と考えた。
「だけどさあ、ダーレクみたいな危険なエイリアンは、勝手に絶滅するままに任せていればいいんじゃない?」
 物語の中の登場人物も、ドクターの行動に対して私と同じような感想を持つ。「ダーレクを信じるのか」という人類の問いに、ドクターは「一人が歴史を変えることもある」と答える。ヒューマン・ダーレクが見せてくれた希望に彼は全財産をベットする気なのだ。むちゃくちゃだ。でも、そんなふうに希望の光を信じきれるのはかっこいい。
 ドクターはいつも、変わるはずのないものも変わることがあると信じている。あるいはそれは、彼自身が絶え間なく変化しつづける存在だからかもしれない。顔が変わり、相棒が変わり、性格が変わり、時代が変わっても、希望に賭けつづける限り彼は同じドクターなのだろう。
 明日はもっとよくなる。そう信じることは、いいことだと思う。入院中に私が出会った本職のドクターたちも、人間が1日でも長く健康に生きられるように努力するのは正しいことだと信じていた(少なくとも、患者たちにはそのように信じている姿を見せていた)。それは、明日はもっとよくなると信じているからだと思う。私は必ずしも明日がよくなるとは思わないが、そうやって私がスネて見せられるのは、誰かが逆向きのことを心底信じていてくれるからにほかならない。

 


     8 砂漠に水

「もしも目の前に壁があって、その壁に消えてほしいとき、私はどういう言葉で話しかけるべきだろう?」
 その問いの答えが出たのは、Yに泥人間の話をされてから2、3ヶ月が経ったころだったと思う。答えはあんがい簡単だった。「バーラムユー」*1と言えばよかった。
 でも、悩みは次々やってくる。次なる悩みは、もっとめんどうで複雑だった。
「もう間に合わないものを間に合わせるにはどうすればいい?」
「116円のライターで何を燃やす?」
「砂漠に水を撒くことを想像してみてください」
 それは本当に悩みに分類されるような問いなのか、当時の私ですらよくわからなかった。
 まったく、人間の脳みそは、創造のときに神がそういう機能をとりつけたのではないかと思うくらい、一日中、一生涯、常になにかを悩んでいる。悩みがないほうがいい、と口では言うが、人間は悩むことがこのうえなく好きな生き物だ。ペットボトルのラベルの川柳にまでしっかり目を通して、悩みの種になりそうなものを絶えず探している。一切の悩みがなくなるのは、たぶん死んだあとだ。
 私は、悩んでいるとき、生きているなあという感じがする。悩ましいものは、私を歓ばせる。人間も、血液型も、病気も、思考実験も、ドラマも、映画も、熱も、泥人間も、宗教も、アイデンティティも、同人誌も。遅々として伸びない髪の毛も、うまく塗れない利き手のネイルもだ。
 骨髄移植後の私の悩みは、もちろん自己同一性に関する問題だった。それは、臨床心理士の先生によって、次のような言葉であらわされた。
「骨髄移植をしてよかったと思いますか?」
 私はちょっと考えてから、こう答えた。
「死にかけたのがはじめてなので、よくわからないです。次に死にかけたときに、その死に方と、骨髄移植をしなかったときに至ったであろう死に方とを比べて、どっちのほうがより自分らしいかを考えてみないと。だから、いまはなんとも言えませんね」
 このとき、ひとつの悩みが、私の死ぬ日までつきまとうことが保障された。この悩みをとおして眺める世界は、雷が落ちる前とは似ても似つかない。「うーん、こんなことならあのとき死んでおけばよかったな」と思いながら死んでいく未来を想像すると、私は怖くて笑ってしまう。つぶさに生きてきた長い人生が、一瞬で、ゼロどころかマイナスまで転げ落ちてしまうことに対する恐怖だ。
 ロキやドクターも、何度も生き返っているのなら、こんな恐ろしさで笑ってしまうときがあるのだろうか。なさそうだ。いや、きっと、あるはずだ。もしも彼らが引き攣り笑いをしていたら、私は彼らにこう言いたい。あるいは、引き攣り笑いをする私に、彼らがこう言ってくれるのかもしれない。
「たしかに、前のに比べたらちょっと見劣りするかもしれないな。でも、こんなのも、なかなかきみらしい死に方だと思うよ」
 私らしさをエイリアンが決めるなよ、と苦笑すると、しぜん、引き攣り笑いはひっこんでしまう。
 その日が来るまで、私はエイリアンと彷徨する血のかよった泥のかたまりなのだ。

 


     九 本を売るならBOOK OFF

 大学の最寄りのBOOK OFFには教科書コーナーが特設されている。毎年、上級生がいらなくなった教科書をそこへ売り、教科書代を節約したい下級生がそこで買う。私もよくお世話になっている。
 数年前、『生徒指導・進路指導』といういかにも使い道のなさそうな教科書をそこで買った。本棚には同じ教科書が3冊並んでいた。私は1冊ずつ手にとって、本の状態をチェックした。なるべくたくさん書き込みがあるものを選んだほうが、授業のポイントがわかって便利だからだ。
 私は3冊のうちでいちばん書き込みの多いものを選び、買った。そして家に帰って、教科書を開き、書き込みを読んだ。基本的にはとても熱心な学生のようだった。講義のつまらなさにうんざりしながら線を引いたのだろうと思う箇所もあった。字は小さく、丸く、どれも弱い筆圧で書かれていた。
 奥付をひらいたとき、私はこの本の本体とカバーのあいだに紙が1枚挟まっているのに気がついた。授業で配られたプリントを、なくさないようにここへ挟んだのだろう。紙を出してみると前の持ち主の名前が書いてあった。それは、Yの名前だった。
 あいつが売った本を買ったのか。私はぞっとした。けれどすぐに、うれしくなった。誰かのいちばん人間らしい部分を引き継がせてもらえるだなんて、光栄な話だった。
 いまから思えば、Yは私をきらっていた。だから、泥人間のいやみを言ったりしてきたのだ。直接言ってきたくらいだから嫌悪感を隠すつもりはなかったのだろう。けれど、目に見えてわかるほどあからさまでもなかった。
 鈍感な私は、だいぶ長い間、Yを好きだった。だから、Yにきらわれていると気づいたときは、けっこう傷ついた。
 まだYにきらわれていると気づいていなかったころ、Yにゴーリーの『蒼い時』という本をプレゼントしたことがある。それは、当時の私がいちばん好きな本だった。
 最後に『蒼い時』から一節引用して終わる。

 

 人生のすべてが メタファーとして解釈できるわけじゃないぜ。
 それはいろんな物が 途中で脱落するからさ。

 

   ☆


 明日はurokogumoさんの担当です!
 ノグボナーラってなんなんだ!?

*1:映画「ベイブ」に出てくる呪文