エイリアンと彷徨する血のかよった泥のかたまり

 本記事は、日頃からお世話になっているはとさん(@810ibara)アドベントカレンダー企画 #ぽっぽアドベント2021(21日目)のための書きおろしです。
 はとさん、毎年企画お疲れさまです。昨年は迷惑かけてすみませんでした。あと、私が入院中にふにゃふにゃになっていたときに、同人誌を出すのを手伝ってくれてありがとうございました。来年も仲良くしてやってください!

 

   ☆

 

     1 泥人間の思考実験

 こんな思考実験がある。
 ある人が、沼のそばを歩いているときに雷に打たれて死んだ。同時に、もう一つの雷が沼へ直撃した。すると、沼にたまった泥と雷が化学反応を起こして、死んだ人と原子レベルでまったく同一の生物“泥人間”が生み出された。泥人間はすたすたと沼を這い出して、死んだその人の生活を引き継いだ。
 私にこの思考実験を教えてくれたのは、大学の同期のYという奴だった。Yは、私に対していやみを言いたくてこの話をしていた。「おれはこういう哲学の問題に深く悩んでいるのだけれど、それに比べておまえはなんの悩みもなさそうでいいよな」というような文脈だった。
 私は、C級ホラー映画みたいな設定の思考実験について本気で悩んでいるYのことをかわいそうに思った。だから、「そうだね、私は自分が泥から生まれたかもしれないだなんて悩んだことはない」と答えた。
 ちなみに、そのころの私が悩んでいた問題はこんなのだった。
「もしも目の前に壁があって、その壁に消えてほしいとき、私はどういう言葉で話しかけるべきだろう?」

 


     2 血液型性格診断

 血液型性格診断がいかに信じるに値しないインチキかということを語る人が増えて、世の中はすこしよくなった。その言葉に救われた血液型ハラスメントサバイバーも大勢いたに違いない。
 さいわい、私は「血液型性格診断は確証バイアスの産物」と言い切る人々に囲まれて生活してこられたから、血液型をそう気にせずに生きてこられた。飲み会で「血液型、何ですか?」と訊かれても、「当ててみて」と答えられるくらいのんきでいられた。当てられても外されても、どうでもよかった。血液型や星座や誕生日が自分のアイデンティティに深く関わっているとは思わなかった。
 昨年の明後日、私は骨髄移植をした。25年間親しんできた自分の骨髄を放射線抗がん剤でぶっ壊したあと、他人の骨髄を移植された。この経過を経て、私の血液型はB型からA型に変わった。
 移植前、医師から「移植をすると血液型が変わります」と宣告されて、私はまあまあショックを受けた。骨髄移植をしなければ余命5年という状況下で、血液型が変わることなんてまったくどうでもよいことのはずだったのだけれども。でも、私はしっかり落ち込んだ。私は、B型だった自分がけっこう好きだった。だから、A型になっても同じだけ自分を好きでいられるか確信が持てなかった。
 それにしても、骨髄を移植しただけでなぜ血液型が変わるのだろう? ここで、高校生物の知識を思い出してもらいたい。高校で生物を履修しなかった人は、中学校の理科の知識でもいい。
 血液は骨のなかにある骨髄という細胞で作られる。血液型は、骨髄の型で決まる。よって、B型の血液を作る骨髄を壊してA型の血液を作る骨髄を移植すれば、骨髄はA型の血液を量産し、血液型はA型になる。これが、骨髄移植で血液型が変わるメカニズムである。ジョナゴールドの枝にはジョナゴールドが生り、サンふじの枝にはサンふじが生る。ジョナゴールドの木にサンふじの枝を接木すれば、それはサンふじの枝だからサンふじが生るというわけだ。
 では、私のアイデンティティ・クライシスの物語に戻ろう。
 私の不安を察してか、社会福祉士のKさんは「血液型性格診断は嘘っぱちです」と断言してくれた。
「血液型が変わっても人間の性格は変わらないことは、この仕事をしていたらよくわかります。血液型が変わったからって、別の人間になるわけじゃありません」
 私は「そりゃそうですよね~」と笑いながら、内心ではまだおののいていた。たとえ血液型性格診断がまったく信じるに値しないインチキだとしても、そうなのだとどれだけ証明されても、証明している人たちは結局無傷で、テセウスの船になるのは私だ。私の一部が変わることは、ゆるがぬ事実。そして、それは一度変わるととりかえしがつかない。
 気持ちのバランスをとるために物事のポジティブな側面を見出そうとして知恵を絞り、やっと、「まあ、両親がB型とO型だから、せっかく変わるならA型かAB型がいいよな」と思った。両親と私の血液型のずれを知って「えっ?」という顔をするつまらない人を、鼻で笑ってやるのは楽しそうだ。
 変わるはずのないものも変わることがある。私は知らぬうちに沼のそばを歩いていたらしい。雷は突然頭を直撃し、私は死んだ。おもむろに沼から這いあがったA型の泥人間は、すたすたと歩きだして、もう私の生活を引き継ぎはじめていた。

 


     3 髪

 入院前、髪を染めることにした。
 私は美容院に行き、とりあえず、青色にしてもらった。
 2週間ほどして色が抜けたら、薬局でカラー剤を買ってきて緑色にした。
 さらに2週間ほどして色が抜けきったら、赤色にした。
 入院中は染髪できないので、どんどん色が抜け、金髪になった。
 そのあと、2㎜の丸刈りにした。
 その髪が1センチほど伸びたころ、全身に放射線を浴びて、抗がん剤を点滴された。
 すべての髪が抜けきった日、無菌室のトイレで鏡を見て、「おお、こりゃまるでひざこぞうだ」と思った。

 


     4 TENET熱

 骨髄は生着した。つまり、移植は成功した。私は2ヶ月間ほど経過を観察され、2月半ばに退院した。
 骨髄移植という処置のいちばん妙なところは、入院前よりも退院後のほうが具合が悪そうになるところだ。体は一日中横にしていないとだるく、15分以上座っているとなんとも言えない苦しさに憑りつかれて泣きたくなった。食事は消化にいいものしか食べられないので、だいたいおかゆか、ホワイトシチューか、どん兵衛(きつね)だった。
 元気になるために入院したはずなのによれよれになって退院してきたら、家族には心配げな目で見られる。私はすこし無理をしてでも元気そうにふるまおうと思って、夜はリビングで映画を観ることにした(入院前は、夕食のあと毎晩のように映画やドラマを1、2時間観ていた)。しかし、体を起こしておくのさえ苦痛なのに、映画を観るのなどほとんど不可能だった。「TENET」なんて観た日にはいよいよわけがわからなかった。「TENET」鑑賞の翌日は、無理がたたったのか熱を出した。完全に知恵熱、いやTENET熱だった。
 では、体を横にしておきさえすればいいのか? と考えて、15分に1度ベッドに寝転がる作戦を編み出した。その作戦を使って、同人誌を執筆しようとした。もちろん、この作戦は失敗した。体は苦しくならないが、15分ごとに体を動かしていたのでは集中できない。だいたい、放射線治療のなごりで脳味噌がろくに回転しないのに、どうして4万文字越えの小説なんか書けるだろう。結局、これも映画鑑賞と同じで、つまりは暇つぶしというていを装った苦行だった。
 なぜそうまでして映画を観ようとするのか。なぜ同人誌を執筆したがるのか。自分でもわけがわからなかった。もしかすると泥人間は「そら見ろ、私は立派に生活を引き継いでいる。私こそが私なのだ」と主張しようとしていたのかもしれない。
 退院から1ヶ月後、社会福祉士のKさんが「その後、どうですか」とメールをくれたとき、私は「しんどいです」と返信した。
「自分の体の限界がまだよくわかっていないみたいで、できないことまでしようとするので、しんどいです」
 Kさんは私の精神状態を気遣ったあと、「しっかり休んでくださいね」と言ってくれた。
「本当に、そのとおりだぞ」と私は思った。

 


     5 ワニのロキ

 こうして記憶を遡ってみると、私の意識は6月の半ばごろまで靄がかったぬるい世界をたゆたっていたということがわかる。
 退院からおよそ4ヶ月後。ようやく私は映画を観ても小説を書いても熱を出さなくなった。新刊も根性で2冊出した。血液型性格診断のA型の診断結果とB型の診断結果を比べて「どっちがより自分っぽいか」を考える遊びも思いついた。いくつかの診断で試してみたところ、どちらの結果もある程度自分っぽかった。なるほど、よくできている。
 そのころ、ディズニー+に加入した。ディズニー+というのは、ディズニーが提供している動画配信のサブスクリプションだ。加入のきっかけは、Youtubeで「ロキ」というドラマのCMを見たからだった。
 「ロキ」はMCUの人気キャラクター・ロキがメインの単独ドラマだ。私はそれまで、特別ロキを推していたわけではなかった。が、「アベンジャーズ インフィニティー・ウォー」でああいうことになったロキが活躍するドラマなら、これは絶対に観なければならないと思った。
 ロキ。いたずらの神。北欧神話では、ゆきずりの馬とセックスをして8本足の子馬を産むというトンチキ設定がある。公式獣姦キャラクターである。もちろん、MCUのロキは馬とはセックスしない。トム・ヒドルストンの顔をしていて、ヨトゥンヘイムという星に生まれ、アスガルドの王子として育ち、魔法が使える。多くのSFアクション映画の悪役と同様に、コスプレチックなレザースーツを身に纏って、あまりはっきりしない動機で地球を侵略する。あと、何度死んでも、尋常でない生命力で生き返る。本人は神を自称しているが、つまりは、地球外生命体。エイリアンだ。
 ドラマ「ロキ」では、ロキはシャツにネクタイ、スラックス姿で登場する。かつてはチタウリというウリ科っぽい名前の敵と結託してNYを破壊していたエイリアンが突然ただの青年になるというギャップがドラマ「ロキ」の魅力の片輪だったと思う。もう片輪は、確固たる世界観に基づいて造られた、凝ったセット。まるで、精巧なロキ人形を使って「もしも、ロキがただの青年だったら?」という思考実験の徹底的な証明を見せられているような感じだった。私はディズニーの策略にまんまとはまり、1ヶ月の無料体験期間を過ぎてもドラマを観続けた。
 このエッセイをちょっとでもましな形で成立させるためには、もうすこし「ロキ」の物語の内容に踏み込んで話をしなければならない。具体的には、ロキとTVAとの戦いの話だ。
 ドラマのなかで、ロキはTVAという組織と戦う。TVAというのは「時間変異取締局」の略称である。ひとときの休みもなくぐにゃぐにゃと変異する“時間”という樹木を、枝葉を剪定して、理想的な形に整える庭師のような存在だ。余分なものを取り除いて正しい形を保つその仕事は、いいことのようでありながら、そのじつ優性思想によく似た考えに下支えされている。
 剪定される枝葉にも、人生はある。枝葉のうちの1本であったロキは、捨てられたほかの枝葉のロキたちと出会い、自分が何者かを考えることになる。枝葉のなかには、ワニの姿をしたロキもいる。あるいは、ロキの自覚に芽生えたワニか?
 ワニは生まれたときから、ワニのはずだ。ということは、ロキの本質は容姿や出自にはないということだ。たとえナイル川に生まれても、ロキにはなれる。しかし、なぜ、ワニがロキの自覚に芽生えたのか? そもそも、そいつは本当にロキなのか? でも、緑色だし、ツノが生えているから、ロキだ。むしろ、ワニロキのほうがよりロキの本質に近いとしたら? いや、待て。そのロキの本質は、誰が決めた? 神か? ロキか? ワニか? 先に生まれたのは、鶏? 卵? それとも、ワニ? ワニなのか? けれど、だが、But……
 「ロキ」を完走したあとに、映画「マイティ・ソー」シリーズを観た。ロキが分身の術を使えるのは、彼のアイデンティティがばらばらに砕けているからだろうなと思った。何十人にも分身したロキは、兄のソーを見下げて高らかに笑う。あたかも、アイデンティティが定まらないことこそが己の自由の証明であるかのように。
アイデンティティ・クライシスは、ロキにとってなんでもないんだ」と私は思った。
「それどころか、それは彼の生きる目的で、強みで、本気で遊べるゲームですらある」

 


     6 天然パーマ

 骨髄移植をして目に見えて変わったのは髪質だ。耳の上のひざこぞうに毛が生えはじめてしばらくすると、それが奔放なうねりを持っていることに気がついた。
 私は生まれつきのストレートヘアだったが、人生の26年目からは100人が見たら100人が天然パーマと呼ぶ髪質になった。社会福祉士のKさん曰く、こういうことは、理屈はよくわからないがたまにあるらしい。私個人は、放射線を浴びたせいで遺伝子情報が破壊されたからではないかと思っている。
 これを機に、私は髪を伸ばしてみることにした。できればハーフアップにできるくらいまで伸ばして、自分がどんな姿に見えるのかを見てみたいと思ったからだ。
 髪を伸ばしはじめてから、身だしなみに対する意識が変わったのか、すこしおしゃれをするようになった。最近は欠かさずネイルを塗っている。風呂あがりには大島椿油を塗ってヘアケアもしている。髪に油を塗るときは「油を注がれた者だ~」と言うという習慣もつけている。こうしておけば、いつ弟子に裏切られても大丈夫だ。
 夜、リビングでネイルを塗っていると、病院の無菌室を思い出す。この刺激的な色彩と体に悪そうな香りは、あの完璧な無臭の、薄暗い蛍光灯の明かりに満ちた、狭く、暖かく、とりとめもなく、崇高で、倫理的で、がらんとしていて、あらゆるものが備えられた、エアコンのファンの音が一日中聞こえる単調な部屋には、決してありえなかった。かといって、無菌室のことを悪く言いたいわけではない。無菌室での生活は楽しかった。ごみ箱に手が届かないもどかしさも、ミニカップ麺の待ち時間を待つあいだに観るテレビの騒がしさも、プラスチックカップにたまる尿の温かさも、あの瞬間を逃せば一生味わえない。あそこには、時間も、季節もあった。外で雪が降ると、必ず誰かが教えてくれた。雨の日は看護師さんから雨のにおいがした。あの部屋から見える朝日の美しさを知らない人たちは、まぶたをつぶってくやしがるがいい。

 


     7 リジェネレーション

 8月。私はかねてより「いい」と噂だったドラマ「グッド・オーメンズ」をついに履修した。そして、ご多分に漏れず「いい」と思った。
「いやあ、いい。なにせ、デイヴィッド・テナントがいい」
 藤原竜也の出演作品を完走した2019年以来、これといって観たいと思う俳優に出会わなかった私は「いい機会だし、デイヴィッド・テナントの出演作品を全部観ようかな」と思い立った。まずは、「ステージド」と「ステージド2」を観た。それから、「ジェシカ・ジョーンズ」を観て、「バッド・ディシジョン」を観て、「DES」を観た。「フライト・ナイト/恐怖の夜」は、昔コリン・ファレルの出演作を観漁ったときに3度観たが、もう1度観て「やっぱこの話はガバガバやな~」と思った。「ハムレット」と「リチャード二世」のDVDをアマゾンで注文して、届くまでのあいだに観るものがないので、とうとう「ドクター・フー」に手をつけた。
 知らない人のために解説しておくと、「ドクター・フー」はイギリスで50年以上放送されているテレビドラマシリーズである。全話を観ようとすると800話くらいある。「ドクター・フー」を観ようと思い立つことは、「ロード・オブ・ザ・リング」シリーズを2晩で全部観ようとすることとか、夏休み中にこち亀を全巻読もうとすることに近い。ようするに、だいぶ覚悟がいる。
 なかなか覚悟がつかなかった私は、ひとまず、いちばん話の要点がまとまっていそうな「ドクターの日」というエピソードをおっかなびっくり観た。ふりかえって考えると、このチョイスは選びうるなかで最善だった。その後は4週間ぶっとおしで、デイヴィッド・テナントが主演を務めているシーズン2~4の計3シーズンを観た。
 「ドクター・フー」の物語は、簡単に言えばSF版シャーロック・ホームズである。ホームズ的立場の“ドクター”とおおむねシーズンごとに変わるその相棒(なぜか決まって美女)が、怪奇現象を解決する。怪奇現象の原因は、たいていエイリアン。ドクターは多くの場合、人類に味方してエイリアンと戦ってくれる。が、彼自身は人類ではなくエイリアンだ。
 ドクターはエイリアンだから、人類よりもずっと長生きで、ほぼ不死身で、おそらく人間がドラマの存続を望む限り生き続ける。そういう前提があるおかげで、ドクター役の俳優はある程度の期間を務めると襲名式に代替わりしてゆく。この交代の儀式がリジェネレーションと呼ばれている。作品内の文法で言えば、リジェネレーションは瀕死状態になったドクターが自分の体を治すために使う治療法だ。体のあらゆる機能をリセットし、不死鳥のごとく新しい姿で生まれ変わるのだ。
 9回目のリジェネレーションを迎えたとき、彼はデイヴィッド・テナントの顔になった。ドクターは顔が変わると若干性格が変わる。10代目ドクターは、人類のルールではなく宇宙のルールで動くドクターだった。そのことがよくわかる私の好きなエピソードが、シーズン3に放送された「ダーレク・イン・マンハッタン」とその続編の「ダーレクの進化」だ。
 “ダーレク”はいわばドクターの宿敵のような存在のエイリアンで、ダーレク族以外の生物を本能的に殺してしまう。ドクターとの戦いによって、ダーレク族は数を減らし、絶滅寸前になる。そこでダーレクが考案したのが、人類とダーレクの交配によって新しい種族“ヒューマン・ダーレク”を生み出すことだった……と、ここまで聞くと、人類の一員としては「頼むからよそでやってくれ~」と言いたくなる。しかし、ドクターはまったく真逆の反応をする。ダーレクの計画を手伝おうとするのである。
 ドラマを観ていた私は「いや、そこは阻止してくれや!」と盛大にツッコんだ。が、すぐに真顔になって、「待てよ、宇宙単位で見たら絶滅寸前のダーレクを守るほうが重要か?」と考えた。
「だけどさあ、ダーレクみたいな危険なエイリアンは、勝手に絶滅するままに任せていればいいんじゃない?」
 物語の中の登場人物も、ドクターの行動に対して私と同じような感想を持つ。「ダーレクを信じるのか」という人類の問いに、ドクターは「一人が歴史を変えることもある」と答える。ヒューマン・ダーレクが見せてくれた希望に彼は全財産をベットする気なのだ。むちゃくちゃだ。でも、そんなふうに希望の光を信じきれるのはかっこいい。
 ドクターはいつも、変わるはずのないものも変わることがあると信じている。あるいはそれは、彼自身が絶え間なく変化しつづける存在だからかもしれない。顔が変わり、相棒が変わり、性格が変わり、時代が変わっても、希望に賭けつづける限り彼は同じドクターなのだろう。
 明日はもっとよくなる。そう信じることは、いいことだと思う。入院中に私が出会った本職のドクターたちも、人間が1日でも長く健康に生きられるように努力するのは正しいことだと信じていた(少なくとも、患者たちにはそのように信じている姿を見せていた)。それは、明日はもっとよくなると信じているからだと思う。私は必ずしも明日がよくなるとは思わないが、そうやって私がスネて見せられるのは、誰かが逆向きのことを心底信じていてくれるからにほかならない。

 


     8 砂漠に水

「もしも目の前に壁があって、その壁に消えてほしいとき、私はどういう言葉で話しかけるべきだろう?」
 その問いの答えが出たのは、Yに泥人間の話をされてから2、3ヶ月が経ったころだったと思う。答えはあんがい簡単だった。「バーラムユー」*1と言えばよかった。
 でも、悩みは次々やってくる。次なる悩みは、もっとめんどうで複雑だった。
「もう間に合わないものを間に合わせるにはどうすればいい?」
「116円のライターで何を燃やす?」
「砂漠に水を撒くことを想像してみてください」
 それは本当に悩みに分類されるような問いなのか、当時の私ですらよくわからなかった。
 まったく、人間の脳みそは、創造のときに神がそういう機能をとりつけたのではないかと思うくらい、一日中、一生涯、常になにかを悩んでいる。悩みがないほうがいい、と口では言うが、人間は悩むことがこのうえなく好きな生き物だ。ペットボトルのラベルの川柳にまでしっかり目を通して、悩みの種になりそうなものを絶えず探している。一切の悩みがなくなるのは、たぶん死んだあとだ。
 私は、悩んでいるとき、生きているなあという感じがする。悩ましいものは、私を歓ばせる。人間も、血液型も、病気も、思考実験も、ドラマも、映画も、熱も、泥人間も、宗教も、アイデンティティも、同人誌も。遅々として伸びない髪の毛も、うまく塗れない利き手のネイルもだ。
 骨髄移植後の私の悩みは、もちろん自己同一性に関する問題だった。それは、臨床心理士の先生によって、次のような言葉であらわされた。
「骨髄移植をしてよかったと思いますか?」
 私はちょっと考えてから、こう答えた。
「死にかけたのがはじめてなので、よくわからないです。次に死にかけたときに、その死に方と、骨髄移植をしなかったときに至ったであろう死に方とを比べて、どっちのほうがより自分らしいかを考えてみないと。だから、いまはなんとも言えませんね」
 このとき、ひとつの悩みが、私の死ぬ日までつきまとうことが保障された。この悩みをとおして眺める世界は、雷が落ちる前とは似ても似つかない。「うーん、こんなことならあのとき死んでおけばよかったな」と思いながら死んでいく未来を想像すると、私は怖くて笑ってしまう。つぶさに生きてきた長い人生が、一瞬で、ゼロどころかマイナスまで転げ落ちてしまうことに対する恐怖だ。
 ロキやドクターも、何度も生き返っているのなら、こんな恐ろしさで笑ってしまうときがあるのだろうか。なさそうだ。いや、きっと、あるはずだ。もしも彼らが引き攣り笑いをしていたら、私は彼らにこう言いたい。あるいは、引き攣り笑いをする私に、彼らがこう言ってくれるのかもしれない。
「たしかに、前のに比べたらちょっと見劣りするかもしれないな。でも、こんなのも、なかなかきみらしい死に方だと思うよ」
 私らしさをエイリアンが決めるなよ、と苦笑すると、しぜん、引き攣り笑いはひっこんでしまう。
 その日が来るまで、私はエイリアンと彷徨する血のかよった泥のかたまりなのだ。

 


     九 本を売るならBOOK OFF

 大学の最寄りのBOOK OFFには教科書コーナーが特設されている。毎年、上級生がいらなくなった教科書をそこへ売り、教科書代を節約したい下級生がそこで買う。私もよくお世話になっている。
 数年前、『生徒指導・進路指導』といういかにも使い道のなさそうな教科書をそこで買った。本棚には同じ教科書が3冊並んでいた。私は1冊ずつ手にとって、本の状態をチェックした。なるべくたくさん書き込みがあるものを選んだほうが、授業のポイントがわかって便利だからだ。
 私は3冊のうちでいちばん書き込みの多いものを選び、買った。そして家に帰って、教科書を開き、書き込みを読んだ。基本的にはとても熱心な学生のようだった。講義のつまらなさにうんざりしながら線を引いたのだろうと思う箇所もあった。字は小さく、丸く、どれも弱い筆圧で書かれていた。
 奥付をひらいたとき、私はこの本の本体とカバーのあいだに紙が1枚挟まっているのに気がついた。授業で配られたプリントを、なくさないようにここへ挟んだのだろう。紙を出してみると前の持ち主の名前が書いてあった。それは、Yの名前だった。
 あいつが売った本を買ったのか。私はぞっとした。けれどすぐに、うれしくなった。誰かのいちばん人間らしい部分を引き継がせてもらえるだなんて、光栄な話だった。
 いまから思えば、Yは私をきらっていた。だから、泥人間のいやみを言ったりしてきたのだ。直接言ってきたくらいだから嫌悪感を隠すつもりはなかったのだろう。けれど、目に見えてわかるほどあからさまでもなかった。
 鈍感な私は、だいぶ長い間、Yを好きだった。だから、Yにきらわれていると気づいたときは、けっこう傷ついた。
 まだYにきらわれていると気づいていなかったころ、Yにゴーリーの『蒼い時』という本をプレゼントしたことがある。それは、当時の私がいちばん好きな本だった。
 最後に『蒼い時』から一節引用して終わる。

 

 人生のすべてが メタファーとして解釈できるわけじゃないぜ。
 それはいろんな物が 途中で脱落するからさ。

 

   ☆


 明日はurokogumoさんの担当です!
 ノグボナーラってなんなんだ!?

*1:映画「ベイブ」に出てくる呪文

長い長い伏線の話

本記事は、日頃からお世話になっているはとさん(@810ibara)アドベントカレンダー企画 #ぽっぽアドベント (10日目)のための書きおろしです。

 

風邪っぴきの1ヶ月

 この散文ともエッセイともつかない小説のようなものは5章立てになっており、すべてを読み終えるにはだいたい30分くらいかかる。各章は、ここ数ヶ月、あるいは数年のあいだに私の身にふりかかったおかしな顛末をそれぞれべつな方向から書いているといった具合だ。私が経験した(そして現在進行形で経験している)できごとは、ひとつのストーリーラインに沿って記述するよりもこういう雑多なメモ書きの蓄積によってはじめて私の実感と一致する。なぜなら私はひとつすじのとおった運命をひた走った結果現在に至ったのではない。現在という位置からふりかえって見たときに、私の走ってきた道がなにかしらの道筋を形づくっていたことがわかったのだ。まず結果があって、そこから原因が見つけ出される。物事はいつもこういう順番になっている。

 私はいま1本の論文を書いている。趣味ではなくて仕事で書いている。私は大学院生で、日本文学の研究をしている。だから、私は論文を書かなければならない。
 なぜ大学院生は論文を書かなければならないのかとか、論文を書くというのがどういうことなのかとか、まずはこのあたりのことを説明しておきたい。そのためには、今年の夏休みに39度の熱を4日間ぶっつづけで出したり、1ヶ月間寝込んだりした話をするべきだ。

 今年の夏休み、私は4回風邪を引いて合計1ヶ月寝込んだ。熱は最高39.6度にまであがり、一時はインフルエンザか細菌感染が疑われたのだが、医者は私に採血と尿検査とレントゲンのフルコンボをおみまいして「ただの風邪だね」と結論づけた。私はとぼとぼ実家へ帰り、薬を飲んでベッドに入って、ご飯を食べるとき以外はずうっと目を閉じていた。
 大学院生の夏休みの過ごしかたはいろいろだ。大半の学生は研究調査にすべてを費やすのだろう。しかし私は夏休みに入る直前にちょっと大きな学会で研究発表をやったので、今年の夏休みはその反動で遊びまくってやるつもりだった。
 だが風邪。現実とは残酷である。

 眠っているあいだ、私は熱のためか「親戚に取り囲まれて早く結婚しろと迫られる」とか「生まれてきた妹があざらしだった」とかいうえげつない悪夢を見てうなされた。熱が下がっている日だけ、夕飯を食べるついでに映画や芝居のDVDを観た。頭のなかでは「早くこのあいだの発表を論文化しなければならない」と思っていた。しかし、難しい思考ができるような体力は、1週間で3キロ落ちた体重とともにどこかに消え失せてしまっていた。

 学会発表というのは学会の会員たちのまえで自分の研究を発表することだ。学会はたとえるなら大学のサークルや部活動みたいなもので、そこで発表するということは、内輪の定期演奏会に出演してちょっとしたソロを演奏するみたいなイメージである。
 学会で披露した発表は、そののち論文の形にリライトして研究雑誌に投稿することがほとんどである。こうすることで、研究結果は全国のネットワークのなかで共有されるようになる。これをサークルのたとえにうつすなら、自分が演奏したソロを楽譜に起こしてみんなも演奏できる形にする、という感じかもしれない。論文化された研究はほかの研究者にアクセスされ、引用されて、次の研究を生み出していく。
 そしてなにより重要なのは、こういう学会発表や論文掲載の経験は積み重なると業績になるということだ。大舞台をこなせばこなすほど、論文を載せれば載せるほど、研究者の能力は評価され、博士号を取得したあとの就職に有利になる。つまり私たち大学院生は、何年もかけて業績を積むことで地道に就職活動をしているのだ。

 そんなわけで、論文が書けないというのは私にとって死活問題だった。なにもできない私は、いらいらしながらDVDを観まくった。

 「なんにもできないときでもなんでもいいからなにかやっていたらどうにかなる」というのは私の顧問の教えである。顧問はかつて東京の大学にかよう文学部生だった。彼女の趣味は観劇で、学生時代は文学研究をするかたわら、時間と金の許す限り芝居を観まくっていたのだという。
 「こんなことやってる場合じゃない」というすさまじい焦りを抱えながらも課金してハッピーになってしまうのはいつの時代もオタクのさがだ。顧問がいったいいくら芝居にねじこんだのかは知らないが、遠い目をして「相当観た」と言っていたくらいだからおそろしく観たのだろう。

 はじまったときにはただの趣味だったはずの顧問の芝居好きは、その後「アダプテーション研究」という研究ジャンルの形でみごとに実を結んだ。その時々は「こんなことやってる場合じゃない」と思っていたことでも、長い目で見れば「こんなことやってる場合だった」ということだ。
 そういうわけで、顧問は「なんにもできないときでもなんでもいいからなにかやっていたらどうにかなる」の人になり、私はその教えを都合のいいように解釈して「いつだってやりたいことをやろう」の人になった。

 そうしてたしかに、なんにもできないときでもなんでもいいからやっていたらどうにかなったのである。ある晩、私は寺山修司原作の『身毒丸』という芝居を観て、「次の研究発表の題材はこれにしよう」とひらめいた。1ヶ月後、このひらめきが現実になり、じっさいに『身毒丸』についての発表を1本しあげることができた。

 いま、私はそれを論文化している。この論文が私の人生はじめての雑誌掲載論文になるだろう。これがどのくらいすごいことかは、この1章を読んだだけではきっとわからない。5章全部を読んでもわからないかもしれない。
 ものすごく平たく言えば、あの陰惨な風邪の日々のなかで、私は運命の出会いとでも呼ぶべき出会いをしたのだった。でも、何度も言うようにこれは“運命”ではなく“伏線”の物語である。だからあえて運命の出会いという言葉は使わず、なんだかよくわからないひとつの帰結としてあいまいに言葉にしてゆきたい。

砂を食べる西田敏行の話

 私が大学に入って文学研究――なかでも演劇や戯曲の研究――をはじめたことと、私の母がむかし芝居をやっていたことのあいだにはなんの因果関係もないと思う。けれども私の周囲の人々は、母がむかし芝居をやっていたという話をすると「だからあなたは演劇に興味を持ったんだね」と勝手に納得してしまう。

 母はこれまでに何度も「演劇だけはやっちゃだめ、でもやりたくなったら本気でやりなさい」と私に言いきかせてきた。忠告を素直に受け取った私は「演劇だけはしない、でもやりたくなったら本気でする」と固く心に誓った。で、いまのところ、演劇は研究するだけにとどめている。

 母が演劇に目覚めたのは高校1年生のときだ。もともとは吹奏楽部に入ってトロンボーン奏者になろうと思っていた母は、部活動初日、吹奏楽部の顧問に「女の肺活量ではトロンボーンは吹けない」と言われてブチきれ、「死ね!」と思って音楽室を飛び出した。彼女はそのままの勢いで音楽室の向かいの教室――そこが演劇部の部室だった――へ駆け込み、芝居になど欠片も興味がなかったくせに「入部届を出させろ」と迫ったのであった。こうして母は、結婚するまでアマチュア俳優として演劇に身を捧げることとなった。

 これは余談だが、私の友人にも高校時代に演劇部へ入部して演劇に目覚めた人間がいる。彼女の名前は仮にSとしよう。Sとは長いこと連絡をとっていないので、彼女がいまどこでなにをやっているのかは知らない。インターネットでパパパッと検索したところによると、今年の7月に『真情あふるる軽薄さ』の演出助手を務めていたようである。
 むかし、Sは私に「演劇は面白すぎるから1度ハマると決して抜け出せない」と言った。母が私に「演劇だけはやっちゃだめ」と言う理由も「演劇は面白すぎるから1度ハマると決して抜け出せない」だったので、私は「ブルータス、おまえもか」とは言わなかったが、そう思った。

 話を母のことに戻す。
 私の母の誇りは、高校時代に水上勉『ブンナよ、木からおりてこい』のヘビの役を演じたことである。私は『ブンナ』を読んだことがないからそれがどうして誇りになるのかはよくわからない。でも、『ブンナ』にはヘビやネズミや雀が登場するということや、ブンナはカエルの名前だということは母の話を聞いて知っている。
 『ブンナ』の例をはじめとして、私は小さいころから観たことのない芝居の話をいろいろ聞かされた。野田秀樹の『小指の思い出』という作品には「あなたは自動販売機だったんですね」という台詞があるとか、どでかい仏壇のなかで上演される日本風『マクベス』がとても面白いんだとかいう話は、毒にも薬にもならない知識として私のなかに積もっている。

 母の十八番に「砂を食べる西田敏行の話」というのがある。それは母がむかし観た芝居の一幕だった。主人公の男(役名はたしか月岡芳年で、これを西田敏行が演じていた)の気が狂う話で、劇の最後にはその男が舞台に山とつもった砂を食べるのだという。
 芝居を観た母は「あの砂はなにでできているんだろうか」と不思議に思った。砂はとてもさらさらしていて、きなこのような色をしており、一見しただけではほんものの砂に見える。しかもそれは食べることができる。
 母は上演後の座談会に参加して、直接西田敏行にその砂の正体を訊いてみた。すると西田敏行は笑って「ごまですよ」と教えてくれた。
 「砂を食べる西田敏行の話」は、それだけだ。私はこの話を聞くたびに「もしも砂を食べなくちゃいけなくなったらごまを食べてごまかそう」と考える(ダジャレではない)。

 「砂を食べる西田敏行の話」のほかには「灰皿投げおじさんの話」がある。灰皿投げおじさんはものすごく怖い演出家で、演出の最中にキレたりどなったりする。ときには俳優に向かって灰皿を投げることもある。べつにこだわって灰皿を投げているわけではなく靴でも椅子でもなんでも投げるのだが、たまたま手近にある灰皿をぶん投げることが多く、結果として灰皿投げおじさんになっている。
 投げるだけ投げて自分では拾いに行かないし、そもそも人に向かってものを投げるのは危ない。それで、あるとき彼が怒りだしたのを見たスタッフがそっと灰皿を隠した。すると灰皿投げおじさんは灰皿がないのを見て「隠すな! 出せ!」とスタッフを叱りつけ、怯えたスタッフが差し出した灰皿を投げた。「灰皿投げおじさんの話」はたしかそんな話だ。

 母から「灰皿投げおじさんの話」を聞いた私は、シンプルに「こえーな」と思った。というか、「砂を食べる西田敏行の話」も、絶妙なオチのなさが一周まわって恐怖を生み出している。砂がごまでできていたからといって、それがいったいなんだというのだ。
 母が語るのは演劇界の魔界的な側面ばかりである。あるいは、演劇界には砂を食ったり灰皿を投げたりする魔物しかいないのかもしれない。

 こんなことを考えていると、私は次第にSのことが心配になる。3年前に大げんかをして以来会っていないS。私に演出のなんたるかを教えようとして「うーん、わからん」と答えられたS。元気にしているだろうか。まだ私のことを怒っているだろうか。いつかSの下宿に泊まったときに、テレビの天気予報が「そろそろチューリップの球根を植えるころです」と言っていた。そう日記に書いてあった。
 そろそろチューリップの球根を植えるころです。

 私が演劇の研究をはじめたきっかけはしごく単純である。寺山修司の研究者になろうと思ったら、寺山修司研究のメイン・ストリームが演劇研究にあったというそれだけのことだ。
 こんなドラマのない書きかたをすると「なんだ、そんな軽薄な理由なのか」と残念がられてしまうかもしれない。だから次の章では、私がどれほどの真情にあふれた軽薄さでもって研究をおこなっているかを、殊更つらそうな口ぶりで書きたてておこうと思う。

芝居はなまもの

 寺山修司が没して37年たつ。彼の主宰した劇団「演劇実験室⦿天井桟敷」がもっとも精力的に活躍したのは1960年代から1970年代。天井桟敷の芝居を生で観た世代は学生闘争をやった世代だと考えるとわかりやすい。1995年生まれの私はそのころ1個の卵細胞でしかなかった。
 そんな私がいま、木戸銭を払ったこともない演劇作品を研究しようとしている。「芝居はなまもの」という決まり文句が使われるとき私は頭を抱えたくなる。一度も観たことがない芝居について、私は論じる権利をもっているのだろうか?

 私にこの“問い”を植えつけたのは私の同期だ。彼の名前は仮にKとしておく。Kは私の同期だったが、入学当時66歳だった。かつて大学で学位を修得して卒業し、定年後大学院生として再入学した、いわゆる「社会人入学組」のひとりである。
 Kのなによりの自慢は66年の歳月を生き抜いたことだった。周囲の学生は20年ちょっとしか生きていない青二才ばかりだったから、人生経験で差をつけていくのがてっとりばやかったのだと思う。Kはいろいろなことを私に教えてくれた。その教えはとても教訓的で、しばしば私を不愉快にした。

 「1度も観たことがない芝居について論じる権利が、きみにあるのか」という“問い”も、例によって私を不愉快にした。それは1年前の飲み会の席での出来事だった。私は赤ら顔のKをじろりと睨んで、「自慢話をしたいんだな」と思った。Kは私くらいの歳のころに天井桟敷の芝居を生で観ていて、それを私に言いふらすのをなによりの楽しみにしていた。

「Kさんの言いかたじゃまるで、私にはその権利がないみたいじゃないですか」
 私が言い返すと、Kはうれしそうににやにやした。
「べつに、権利がないとは言っていないじゃない」
「でも、私の口からは権利があるとは言えませんよ。だってずうずうしいでしょう。生で芝居を観た人とそうでない人とのあいだには、やっぱり埋めがたい差があると思うから」
「じゃあ、どうして寺山の研究なんかするの? ほかにもたくさんあるでしょう、研究対象は。天井桟敷の芝居を観たことがあるおれに言わせれば、観たことがないきみがわざわざ研究する必要はないよ」

 私はもうすっかり興ざめして、うんざりして、とっととシメのラーメンを食べて、帰って眠りたいと思っていた。

「Kさんは、じっさいに観たことのある芝居しか論じるべきではないと考えてるんですね」
「おれはそう思ってる」
「その論理だと、歌舞伎や能の研究なんかは、究極的にはできなくなってしまいますけど」
「おれはそれでもいいと思ってる。だって、芝居はなまものなんだよ。その芝居を生で観た世代が全員死んだときが、その芝居の死ぬときなんだ」

 Kとのそういう会話以来、私はこのうえないほどいらいらした。そのころの日記に「最悪(4月17日)」や「馬鹿にしやがって(4月18日)」とひと言だけ書いてあることを見ても私のいらだちっぷりがわかる。
 あまりのいらいらで日常生活がままならなくなりはじめたとある水曜日、私は目を覚ますなり脈絡もなく「今日は映画館へ行こう」と決めた。そうして歯を磨き、車に乗り、授業をサボって映画館へ駆け込んだ。

 その日観たのが、「三周忌追悼企画 蜷川幸雄シアター2」というシリーズで上映されていた『身毒丸』のライブビューイング(厳密には録画の上映でありライブではないのだが、私はそれを表す的確な語彙を知らない)であった。だが正直に言えば、そのときの私にとっては主演の藤原竜也も、『身毒丸』のストーリーも、原作者が寺山修司であることさえもどうでもよかった。芝居を観られるから観た。それだけだ。「生の芝居を観るのがそんなに偉いのか」という怒りだけがひたすらリアルだった。
 果たして、『身毒丸』はつまらなかった。

 Kはその後も飲み会があるたびに、私のそばへやってきては「きみに寺山修司を研究する権利はあるのかな?」と議論を吹っかけてにやにや笑った。
 ほんとうのところ、寺山修司を論じる権利なんてないということを、私は痛いほどよくわかっている。だから、「権利がないなりに誠実に研究するんです」というきれいごとを言ってごまかすのである。いまも、そしてこれからも。そういう態度がいちばん誠実でないと知りながら、これ以上悩んで傷つくのがいやで、思考の蓋を閉じている。

 その年の12月、Kはいきなり死んだ。冗談みたいな話だが、ほんとうに死んだのである。享年67歳。肺がんだった。
 Kの訃報をきいたときも、私はやっぱりいらいらした。苦しい置き土産を押しつけてそのうえ突然幕切れだとはいくらなんでも無責任がすぎるというものだ。だが、どれだけ私が文句を言ったところでKの知ったところではない。言い損だ。クソ。いらいらする。

 ひとつだけたしかなのは、私はKの人生の一端を、たしかに、生で、しかも目のまえで観たということだ。もしも「その芝居を生で観た世代が全員死んだときが、その芝居の死ぬとき」というKの言葉が真実なら、Kの“問い”を知っている私が死んだときがKの死ぬときだということになる。私の死後はKの“問い”など論じられなくていい。というか、論じる権利は誰にもない。論じるな。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

 でも、自分がいつ死ぬかってことを、他人の寿命なんかに決められて口惜しくないんだろうか? いいえ、Kさんがいいんなら私はちっともかまいません。
 ははは。憎しみ。

藤原竜也アレルギー

「おれはここの王だ。砂糖の一粒までがおれに従う。従うか、死ぬかだ」

 風邪をひく前日、私は映画館で『Diner ダイナー』を観て、帰路にひとりきりの車内で「藤原竜也、エロすぎんだろ」と叫んだ。かろやかに、藤原竜也沼へ三回転ダイブ。同時に発熱。39.6度。

 じつは、夏休みのあいだに引いた4回の風邪のうち3回は、『ダイナー』を観たりおかわりしたりした翌日に発症した。母は「この風邪が治ったら4回目の『ダイナー』を観に行く」とうめく私の顔をまじまじと見て、ひと言、「藤原竜也アレルギーだからやめときなさい」と言った。「アレルギーじゃないから、エロいだけだから……」と私は泣いた。
 医者は私の発熱を「ただの風邪だね」と結論づけた。しかし、私の実感ではあれは風邪などではなく知恵熱だ。それほどエロかったのだ、『ダイナー』の藤原竜也は。まさかと思った人類は、1月22日にDVDが発売されるから買うかレンタルするかして観てほしい(ダイマ)。

 『ダイナー』での藤原竜也はボンベロという名前である。ボンベロは元殺し屋の天才シェフで、「ダイナー」という殺し屋専用の食堂で働いている。主人公・カナコはある日一身上の都合によりボンベロの店で働くこととなり、店に来る殺し屋の事情にボンベロとともに巻き込まれる。物語の大筋はそんな感じだ。

 エンターテインメント色の強い映画なので、繰り返し観ているとストーリーやキャラクター設定がけっこうがばっとしていることに気づくということは認めなければならないだろう。だが『ダイナー』の本髄はそこではない(個人の感想です)。監督の蜷川実花が「いちばんかっこいい藤原竜也を私がとらなければならない」と宣言したとおり、この映画は藤原竜也を美しくエロく撮ることにかけている情熱が尋常でないのだ。
 かつてこれほどまでに藤原竜也の腰の細さに気づかされた映画があっただろうか? 多額の借金を背負わされる藤原竜也はいても(@カイジ)、後光を背負って白く輝きながら登場する藤原竜也はいなかったのではないか?……

 映画のラストでは、「おれたちのリビドーが雨になったんだな!」と思うほどの大量の水がどこからか降ってきて藤原竜也をびしょびしょにする。濡れそぼった長髪のあいだからぎらりと覗く峻険な目を見て、私は「これだ」と思う。どちらかというと童顔な、人なつっこい貌にしつらえられたふたつの目は「おれを飼い慣らそうっていうつもりなら、いつだって舌噛んで死んでやる」とでも言うような激しい怒りを秘めている。彼はむかしからそうだ。少なくとも私がはじめて出会ったときには、もうすでにそうだった。

 はじめて出会ったとき、彼は沖田総司だった。
 9歳の私は彼を「沖田くん」として覚えた。彼に「藤原竜也」というべつの名前があると知ったのは小学6年生のころ。彼が『DEATH NOTE』の夜神月役を演って、クラスメイトの会話に「藤原竜也」という語彙が登場しはじめたあたりだった。
 しかし、沖田くんは私のなかでだいぶ長いあいだ沖田くんだった。大河ドラマ新選組!』の登場人物の最推しが沖田くんだったからだ。『カイジ 人生逆転ゲーム』のカイジや『るろうに剣心』の志々雄真実を見ても、まずは「あ、沖田くんががんばってる」と思い、それから「俳優さんの名前なんだっけ、あ、そうそう。藤原竜也ね」と思うほどだった。大学に入って映画を頻繁に観るようになってからきちんと名前を覚えたが、「沖田くんの」はあいかわらず接頭辞として「藤原竜也」にくっついていた。

 ちなみに、藤原竜也沖田総司を演じたのは22歳のときである。当時彼は俳優歴7年目。デビューの年は1997年。15歳の藤原少年の初舞台は、私がのちに「つまらない」と思う『身毒丸』である。

 彼が「沖田くん」だったころから、私は彼の意志の強そうな目が好きだった。芝居をしているときの彼はとくに激しいまなざしをしていると思う。まなざしが向けられる相手はその時々によって変わる。相手役の俳優だったり、台本の台詞の1行だったり、彼を観ている観客だったり、ときには世界そのものだったりする。そうして向けられる相手が変われば、当然まなざしの持つ意味も変わる。侮蔑、怒り、憎しみ……といった具合に。
 それから、彼の声も好きだ。あの声にはぜひ、正真正銘の非難をこめて「いやだ」と言ってほしい。押しつぶされてなおふり絞るような、かすれた、しかし力強い声は、この世のあらゆる不当をかたっぱしからはねつけるためだけに用意されたみたいだ。

 藤原竜也がよく命がけのシチュエーションに巻き込まれる役を引き当てるのは、たぶんたんなる偶然ではない。強いまなざしを持った人物が死ぬ目に遭わされて「こんな仕打ち許さない」とうめくようにつぶやくのをみんな聞きたがっているのだろう。
 彼の目は必ず気高い理想を見つめており、目のまえの腐った現実は決して受け容れない。彼が全身から放つ反逆の意志に、いつしか私はカタルシスを感じるようになった。そうして、あの尽きることのない憤懣がどこから湧き出してくるのか、いつも不思議に思っていた。

 もうすこしだけ『ダイナー』の話をしておく。
 『ダイナー』にはボンベロのボスにあたる人物が登場する。彼の名前はデルモニコという。故人として登場するのでその性格やバックボーンの詳細はわからない。ボンベロの店の奥まった部屋の壁にはデルモニコの肖像画が掛けてあり、妙な存在感を放っている。右手で軽く頬杖をついて眉をひそめた厳格そうな風貌は、いかにも殺し屋のボスという感じだ。
 映画を観ながら、私は「この顔、どこかで知っているぞ」と思った。けれど、鉄棒の逆上がりの次に人の顔を覚えるのが苦手な私には、ついに映画が終わるまで、それが誰だかわからなかった。

マキガワさん

 きっかけは、中学1年生のときに美術の資料集で見た1葉の金魚の写真だ。写真という芸術ジャンルにまったく興味のなかった私でも、その写真がすごいということはすんなりとわかるような気がした。
 なにしろ、色がすごいのである。金魚が、まるでよく晴れた日の真昼に咲いたチューリップのように赤いのである。私の目には、いまだかつて金魚がそれほど赤く見えたことはなかった。だが、その写真が証明していたのは、私の目以外の“目”がたしかにこの世のどこかに存在するということだった。誰かの目を借りて世界を見たいと思ったのはそれがはじめてだった。

 帰宅して、私はさっそく母に「今日美術の資料集で見た写真がすごかった」という話をした。母は夕飯の準備をしながら「なんて写真家の作品?」と訊いた。「マキガワミカさんだよ」と私は答えた。

「漢字が難しいから、ほんとうにマキガワと読むのかわからないけれど。『虫』っていう字の右に巻物の『巻』みたいな字を書いて、『川』をつづけたのが苗字。下の名前は果実の『実』に『花』という字だから、ミカと読むので間違いないと思う」
 すると母は頭のなかでちょっと文字を書いてから、急にあっはっはと笑いはじめた。
「それはね、ニナガワと読むんだよ。虫に巻く、みたいな字を書くんでしょ。ニナだよ。蛍が食べる『川蜷』を、逆から描いて『蜷川』」

 すごいすごいと褒めちぎっていたくせに肝心の名前を読み間違えてしまったのが恥ずかしくて、私はたちまちぐにゃぐにゃになった。
 そんな私に追い討ちをかけるように、そばで話を聞いていた父が「蜷川っていったらニナガワユキオの?」とくちばしをはさんできた。「たぶんそうでしょ」と母が答える。「親戚かな?」「娘じゃない?」「へーえ、娘が写真家やってるのか」「テレビかなにかでちらっと聞いたことある」「美術の資料集に載るほど活躍してるなんてすごいじゃないか」「まあ、親が有名人だからね」……

 頭上で交わされる両親の会話を聞いて、私は「誰かの娘の話なんかしてねえんだよ」といまにも怒鳴りそうだった。マキガワミカはニナガワミカの間違いで、しかもミカはユキオの娘で、写真家なのは親の七光りなんて、私はそんな話をしたいんじゃない。私はニナガワユキオなんて知らない。そんな人間の名前、姓どころか名も綴れない。そんなことより、マキガワミカの話がしたいのだ。金魚の話がしたいのだ。あの写真はすごい。それだけの直感がなんで伝わらないのだ。
 みんなばかだ。ちくしょうめ。こんな話、二度とするもんか。

 不幸だったのは蜷川幸雄だ。私はこの一件のために、顔も名前も知らない彼のことがめちゃくちゃだいきらいになってしまった。
 3年前にテレビで訃報が流れたときも、そのことについて友人のSが「すごい演出家だったんだよ」と解説してくれたときも、私は「知ったことか」と心のなかでつばを吐いていた。映画館で『身毒丸』を観たときに「つまらなかった」と思ったのにも、約10年前のマキガワミカ・ショックが影響していたのだろうと、いまなら思う。
 それにしても、あれほど人をきらいになることは人生で二度とないんじゃないだろうか。たとえ2度目があったとしても、きっとあれほどつまらない理由できらいになることはできないはずだ。

 夏。風邪を引いて、私は「なんにもできないときでもなんでもいいからなにかやっていたらどうにかなる」の教えを忠実に実行し、映画と芝居のDVDを観まくった。蜷川実花監督の文字に誘われて『ダイナー』を観て、藤原竜也沼へハマって……という時期だったので、とりあえず藤原竜也の出演している作品を全部観ようと思い、ローラー作戦を展開した。

 そういうわけで、私は2度目の『身毒丸』を観た。『身毒丸』は2度観ても、やっぱりつまらなかった。けれど、それは1度目に観たときとはどこか違う種類のつまらなさだった。人はときどき、面白いものが隠れているということをつまらなさで感じることがある。
 だが、このふたつの『身毒丸』を観た感触が違った違ったとどれだけ喚いたところで私が観たのは1年前に観たのと同じ『身毒丸』だったのだから、じっさいにはどこにも違いなどありはしなかった。蜷川幸雄が死に、同期のKが死に、Sに教えられた演出のなんたるかがようやく体に染み入ってきて、藤原竜也の腰の細さにも気がついた――そういういろいろの断片が寄せ集めによっていつのまにか私の“目”が変わっていたのである。まったくそうとしか言いようがない。

 DVDの特典映像には蜷川幸雄が映っていた。ちらかっていたすべての線がまとまって、私は「そういうことだったんだな」と思った。DVDを観終わったあと、隣にいた母に「次の研究発表の題材はこれにするよ」とつぶやくと、母は「前に観たときはつまんないって言ってたのに。なんか突然だね」と笑った。
 人類はこれと同じ言葉を、ベテルギウスがいつか超新星爆発を起こして、642年後にその光が地球に届いたときにも言うだろう。はるかかなたから飛んできた灰皿にとうとうしとめられたのだということは、おそらくしとめられた者にしかわからない。私は頭から血を流しながら回想をはじめる。結局、ものごとの起こりというやつはどこにあったのか?

 こうして、“伏線”はひとつの論文に帰結した。この論文もまたひとつの“伏線”となってやがては新たな帰結に至るのだろう。けれど、それがなんなのかはまだ知らない。あせって知りたいとも思わない。
 なぜなら私は文学研究者で、小説や戯曲を読解するのが好きで、それはつまり、混沌とした世界から伏線を拾い集めて、なにかしらの道筋が形づくられていることを指摘するのが好きだ、ということだからです。

 うまく書けただろうか。