長い長い伏線の話

本記事は、日頃からお世話になっているはとさん(@810ibara)アドベントカレンダー企画 #ぽっぽアドベント (10日目)のための書きおろしです。

 

風邪っぴきの1ヶ月

 この散文ともエッセイともつかない小説のようなものは5章立てになっており、すべてを読み終えるにはだいたい30分くらいかかる。各章は、ここ数ヶ月、あるいは数年のあいだに私の身にふりかかったおかしな顛末をそれぞれべつな方向から書いているといった具合だ。私が経験した(そして現在進行形で経験している)できごとは、ひとつのストーリーラインに沿って記述するよりもこういう雑多なメモ書きの蓄積によってはじめて私の実感と一致する。なぜなら私はひとつすじのとおった運命をひた走った結果現在に至ったのではない。現在という位置からふりかえって見たときに、私の走ってきた道がなにかしらの道筋を形づくっていたことがわかったのだ。まず結果があって、そこから原因が見つけ出される。物事はいつもこういう順番になっている。

 私はいま1本の論文を書いている。趣味ではなくて仕事で書いている。私は大学院生で、日本文学の研究をしている。だから、私は論文を書かなければならない。
 なぜ大学院生は論文を書かなければならないのかとか、論文を書くというのがどういうことなのかとか、まずはこのあたりのことを説明しておきたい。そのためには、今年の夏休みに39度の熱を4日間ぶっつづけで出したり、1ヶ月間寝込んだりした話をするべきだ。

 今年の夏休み、私は4回風邪を引いて合計1ヶ月寝込んだ。熱は最高39.6度にまであがり、一時はインフルエンザか細菌感染が疑われたのだが、医者は私に採血と尿検査とレントゲンのフルコンボをおみまいして「ただの風邪だね」と結論づけた。私はとぼとぼ実家へ帰り、薬を飲んでベッドに入って、ご飯を食べるとき以外はずうっと目を閉じていた。
 大学院生の夏休みの過ごしかたはいろいろだ。大半の学生は研究調査にすべてを費やすのだろう。しかし私は夏休みに入る直前にちょっと大きな学会で研究発表をやったので、今年の夏休みはその反動で遊びまくってやるつもりだった。
 だが風邪。現実とは残酷である。

 眠っているあいだ、私は熱のためか「親戚に取り囲まれて早く結婚しろと迫られる」とか「生まれてきた妹があざらしだった」とかいうえげつない悪夢を見てうなされた。熱が下がっている日だけ、夕飯を食べるついでに映画や芝居のDVDを観た。頭のなかでは「早くこのあいだの発表を論文化しなければならない」と思っていた。しかし、難しい思考ができるような体力は、1週間で3キロ落ちた体重とともにどこかに消え失せてしまっていた。

 学会発表というのは学会の会員たちのまえで自分の研究を発表することだ。学会はたとえるなら大学のサークルや部活動みたいなもので、そこで発表するということは、内輪の定期演奏会に出演してちょっとしたソロを演奏するみたいなイメージである。
 学会で披露した発表は、そののち論文の形にリライトして研究雑誌に投稿することがほとんどである。こうすることで、研究結果は全国のネットワークのなかで共有されるようになる。これをサークルのたとえにうつすなら、自分が演奏したソロを楽譜に起こしてみんなも演奏できる形にする、という感じかもしれない。論文化された研究はほかの研究者にアクセスされ、引用されて、次の研究を生み出していく。
 そしてなにより重要なのは、こういう学会発表や論文掲載の経験は積み重なると業績になるということだ。大舞台をこなせばこなすほど、論文を載せれば載せるほど、研究者の能力は評価され、博士号を取得したあとの就職に有利になる。つまり私たち大学院生は、何年もかけて業績を積むことで地道に就職活動をしているのだ。

 そんなわけで、論文が書けないというのは私にとって死活問題だった。なにもできない私は、いらいらしながらDVDを観まくった。

 「なんにもできないときでもなんでもいいからなにかやっていたらどうにかなる」というのは私の顧問の教えである。顧問はかつて東京の大学にかよう文学部生だった。彼女の趣味は観劇で、学生時代は文学研究をするかたわら、時間と金の許す限り芝居を観まくっていたのだという。
 「こんなことやってる場合じゃない」というすさまじい焦りを抱えながらも課金してハッピーになってしまうのはいつの時代もオタクのさがだ。顧問がいったいいくら芝居にねじこんだのかは知らないが、遠い目をして「相当観た」と言っていたくらいだからおそろしく観たのだろう。

 はじまったときにはただの趣味だったはずの顧問の芝居好きは、その後「アダプテーション研究」という研究ジャンルの形でみごとに実を結んだ。その時々は「こんなことやってる場合じゃない」と思っていたことでも、長い目で見れば「こんなことやってる場合だった」ということだ。
 そういうわけで、顧問は「なんにもできないときでもなんでもいいからなにかやっていたらどうにかなる」の人になり、私はその教えを都合のいいように解釈して「いつだってやりたいことをやろう」の人になった。

 そうしてたしかに、なんにもできないときでもなんでもいいからやっていたらどうにかなったのである。ある晩、私は寺山修司原作の『身毒丸』という芝居を観て、「次の研究発表の題材はこれにしよう」とひらめいた。1ヶ月後、このひらめきが現実になり、じっさいに『身毒丸』についての発表を1本しあげることができた。

 いま、私はそれを論文化している。この論文が私の人生はじめての雑誌掲載論文になるだろう。これがどのくらいすごいことかは、この1章を読んだだけではきっとわからない。5章全部を読んでもわからないかもしれない。
 ものすごく平たく言えば、あの陰惨な風邪の日々のなかで、私は運命の出会いとでも呼ぶべき出会いをしたのだった。でも、何度も言うようにこれは“運命”ではなく“伏線”の物語である。だからあえて運命の出会いという言葉は使わず、なんだかよくわからないひとつの帰結としてあいまいに言葉にしてゆきたい。

砂を食べる西田敏行の話

 私が大学に入って文学研究――なかでも演劇や戯曲の研究――をはじめたことと、私の母がむかし芝居をやっていたことのあいだにはなんの因果関係もないと思う。けれども私の周囲の人々は、母がむかし芝居をやっていたという話をすると「だからあなたは演劇に興味を持ったんだね」と勝手に納得してしまう。

 母はこれまでに何度も「演劇だけはやっちゃだめ、でもやりたくなったら本気でやりなさい」と私に言いきかせてきた。忠告を素直に受け取った私は「演劇だけはしない、でもやりたくなったら本気でする」と固く心に誓った。で、いまのところ、演劇は研究するだけにとどめている。

 母が演劇に目覚めたのは高校1年生のときだ。もともとは吹奏楽部に入ってトロンボーン奏者になろうと思っていた母は、部活動初日、吹奏楽部の顧問に「女の肺活量ではトロンボーンは吹けない」と言われてブチきれ、「死ね!」と思って音楽室を飛び出した。彼女はそのままの勢いで音楽室の向かいの教室――そこが演劇部の部室だった――へ駆け込み、芝居になど欠片も興味がなかったくせに「入部届を出させろ」と迫ったのであった。こうして母は、結婚するまでアマチュア俳優として演劇に身を捧げることとなった。

 これは余談だが、私の友人にも高校時代に演劇部へ入部して演劇に目覚めた人間がいる。彼女の名前は仮にSとしよう。Sとは長いこと連絡をとっていないので、彼女がいまどこでなにをやっているのかは知らない。インターネットでパパパッと検索したところによると、今年の7月に『真情あふるる軽薄さ』の演出助手を務めていたようである。
 むかし、Sは私に「演劇は面白すぎるから1度ハマると決して抜け出せない」と言った。母が私に「演劇だけはやっちゃだめ」と言う理由も「演劇は面白すぎるから1度ハマると決して抜け出せない」だったので、私は「ブルータス、おまえもか」とは言わなかったが、そう思った。

 話を母のことに戻す。
 私の母の誇りは、高校時代に水上勉『ブンナよ、木からおりてこい』のヘビの役を演じたことである。私は『ブンナ』を読んだことがないからそれがどうして誇りになるのかはよくわからない。でも、『ブンナ』にはヘビやネズミや雀が登場するということや、ブンナはカエルの名前だということは母の話を聞いて知っている。
 『ブンナ』の例をはじめとして、私は小さいころから観たことのない芝居の話をいろいろ聞かされた。野田秀樹の『小指の思い出』という作品には「あなたは自動販売機だったんですね」という台詞があるとか、どでかい仏壇のなかで上演される日本風『マクベス』がとても面白いんだとかいう話は、毒にも薬にもならない知識として私のなかに積もっている。

 母の十八番に「砂を食べる西田敏行の話」というのがある。それは母がむかし観た芝居の一幕だった。主人公の男(役名はたしか月岡芳年で、これを西田敏行が演じていた)の気が狂う話で、劇の最後にはその男が舞台に山とつもった砂を食べるのだという。
 芝居を観た母は「あの砂はなにでできているんだろうか」と不思議に思った。砂はとてもさらさらしていて、きなこのような色をしており、一見しただけではほんものの砂に見える。しかもそれは食べることができる。
 母は上演後の座談会に参加して、直接西田敏行にその砂の正体を訊いてみた。すると西田敏行は笑って「ごまですよ」と教えてくれた。
 「砂を食べる西田敏行の話」は、それだけだ。私はこの話を聞くたびに「もしも砂を食べなくちゃいけなくなったらごまを食べてごまかそう」と考える(ダジャレではない)。

 「砂を食べる西田敏行の話」のほかには「灰皿投げおじさんの話」がある。灰皿投げおじさんはものすごく怖い演出家で、演出の最中にキレたりどなったりする。ときには俳優に向かって灰皿を投げることもある。べつにこだわって灰皿を投げているわけではなく靴でも椅子でもなんでも投げるのだが、たまたま手近にある灰皿をぶん投げることが多く、結果として灰皿投げおじさんになっている。
 投げるだけ投げて自分では拾いに行かないし、そもそも人に向かってものを投げるのは危ない。それで、あるとき彼が怒りだしたのを見たスタッフがそっと灰皿を隠した。すると灰皿投げおじさんは灰皿がないのを見て「隠すな! 出せ!」とスタッフを叱りつけ、怯えたスタッフが差し出した灰皿を投げた。「灰皿投げおじさんの話」はたしかそんな話だ。

 母から「灰皿投げおじさんの話」を聞いた私は、シンプルに「こえーな」と思った。というか、「砂を食べる西田敏行の話」も、絶妙なオチのなさが一周まわって恐怖を生み出している。砂がごまでできていたからといって、それがいったいなんだというのだ。
 母が語るのは演劇界の魔界的な側面ばかりである。あるいは、演劇界には砂を食ったり灰皿を投げたりする魔物しかいないのかもしれない。

 こんなことを考えていると、私は次第にSのことが心配になる。3年前に大げんかをして以来会っていないS。私に演出のなんたるかを教えようとして「うーん、わからん」と答えられたS。元気にしているだろうか。まだ私のことを怒っているだろうか。いつかSの下宿に泊まったときに、テレビの天気予報が「そろそろチューリップの球根を植えるころです」と言っていた。そう日記に書いてあった。
 そろそろチューリップの球根を植えるころです。

 私が演劇の研究をはじめたきっかけはしごく単純である。寺山修司の研究者になろうと思ったら、寺山修司研究のメイン・ストリームが演劇研究にあったというそれだけのことだ。
 こんなドラマのない書きかたをすると「なんだ、そんな軽薄な理由なのか」と残念がられてしまうかもしれない。だから次の章では、私がどれほどの真情にあふれた軽薄さでもって研究をおこなっているかを、殊更つらそうな口ぶりで書きたてておこうと思う。

芝居はなまもの

 寺山修司が没して37年たつ。彼の主宰した劇団「演劇実験室⦿天井桟敷」がもっとも精力的に活躍したのは1960年代から1970年代。天井桟敷の芝居を生で観た世代は学生闘争をやった世代だと考えるとわかりやすい。1995年生まれの私はそのころ1個の卵細胞でしかなかった。
 そんな私がいま、木戸銭を払ったこともない演劇作品を研究しようとしている。「芝居はなまもの」という決まり文句が使われるとき私は頭を抱えたくなる。一度も観たことがない芝居について、私は論じる権利をもっているのだろうか?

 私にこの“問い”を植えつけたのは私の同期だ。彼の名前は仮にKとしておく。Kは私の同期だったが、入学当時66歳だった。かつて大学で学位を修得して卒業し、定年後大学院生として再入学した、いわゆる「社会人入学組」のひとりである。
 Kのなによりの自慢は66年の歳月を生き抜いたことだった。周囲の学生は20年ちょっとしか生きていない青二才ばかりだったから、人生経験で差をつけていくのがてっとりばやかったのだと思う。Kはいろいろなことを私に教えてくれた。その教えはとても教訓的で、しばしば私を不愉快にした。

 「1度も観たことがない芝居について論じる権利が、きみにあるのか」という“問い”も、例によって私を不愉快にした。それは1年前の飲み会の席での出来事だった。私は赤ら顔のKをじろりと睨んで、「自慢話をしたいんだな」と思った。Kは私くらいの歳のころに天井桟敷の芝居を生で観ていて、それを私に言いふらすのをなによりの楽しみにしていた。

「Kさんの言いかたじゃまるで、私にはその権利がないみたいじゃないですか」
 私が言い返すと、Kはうれしそうににやにやした。
「べつに、権利がないとは言っていないじゃない」
「でも、私の口からは権利があるとは言えませんよ。だってずうずうしいでしょう。生で芝居を観た人とそうでない人とのあいだには、やっぱり埋めがたい差があると思うから」
「じゃあ、どうして寺山の研究なんかするの? ほかにもたくさんあるでしょう、研究対象は。天井桟敷の芝居を観たことがあるおれに言わせれば、観たことがないきみがわざわざ研究する必要はないよ」

 私はもうすっかり興ざめして、うんざりして、とっととシメのラーメンを食べて、帰って眠りたいと思っていた。

「Kさんは、じっさいに観たことのある芝居しか論じるべきではないと考えてるんですね」
「おれはそう思ってる」
「その論理だと、歌舞伎や能の研究なんかは、究極的にはできなくなってしまいますけど」
「おれはそれでもいいと思ってる。だって、芝居はなまものなんだよ。その芝居を生で観た世代が全員死んだときが、その芝居の死ぬときなんだ」

 Kとのそういう会話以来、私はこのうえないほどいらいらした。そのころの日記に「最悪(4月17日)」や「馬鹿にしやがって(4月18日)」とひと言だけ書いてあることを見ても私のいらだちっぷりがわかる。
 あまりのいらいらで日常生活がままならなくなりはじめたとある水曜日、私は目を覚ますなり脈絡もなく「今日は映画館へ行こう」と決めた。そうして歯を磨き、車に乗り、授業をサボって映画館へ駆け込んだ。

 その日観たのが、「三周忌追悼企画 蜷川幸雄シアター2」というシリーズで上映されていた『身毒丸』のライブビューイング(厳密には録画の上映でありライブではないのだが、私はそれを表す的確な語彙を知らない)であった。だが正直に言えば、そのときの私にとっては主演の藤原竜也も、『身毒丸』のストーリーも、原作者が寺山修司であることさえもどうでもよかった。芝居を観られるから観た。それだけだ。「生の芝居を観るのがそんなに偉いのか」という怒りだけがひたすらリアルだった。
 果たして、『身毒丸』はつまらなかった。

 Kはその後も飲み会があるたびに、私のそばへやってきては「きみに寺山修司を研究する権利はあるのかな?」と議論を吹っかけてにやにや笑った。
 ほんとうのところ、寺山修司を論じる権利なんてないということを、私は痛いほどよくわかっている。だから、「権利がないなりに誠実に研究するんです」というきれいごとを言ってごまかすのである。いまも、そしてこれからも。そういう態度がいちばん誠実でないと知りながら、これ以上悩んで傷つくのがいやで、思考の蓋を閉じている。

 その年の12月、Kはいきなり死んだ。冗談みたいな話だが、ほんとうに死んだのである。享年67歳。肺がんだった。
 Kの訃報をきいたときも、私はやっぱりいらいらした。苦しい置き土産を押しつけてそのうえ突然幕切れだとはいくらなんでも無責任がすぎるというものだ。だが、どれだけ私が文句を言ったところでKの知ったところではない。言い損だ。クソ。いらいらする。

 ひとつだけたしかなのは、私はKの人生の一端を、たしかに、生で、しかも目のまえで観たということだ。もしも「その芝居を生で観た世代が全員死んだときが、その芝居の死ぬとき」というKの言葉が真実なら、Kの“問い”を知っている私が死んだときがKの死ぬときだということになる。私の死後はKの“問い”など論じられなくていい。というか、論じる権利は誰にもない。論じるな。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

 でも、自分がいつ死ぬかってことを、他人の寿命なんかに決められて口惜しくないんだろうか? いいえ、Kさんがいいんなら私はちっともかまいません。
 ははは。憎しみ。

藤原竜也アレルギー

「おれはここの王だ。砂糖の一粒までがおれに従う。従うか、死ぬかだ」

 風邪をひく前日、私は映画館で『Diner ダイナー』を観て、帰路にひとりきりの車内で「藤原竜也、エロすぎんだろ」と叫んだ。かろやかに、藤原竜也沼へ三回転ダイブ。同時に発熱。39.6度。

 じつは、夏休みのあいだに引いた4回の風邪のうち3回は、『ダイナー』を観たりおかわりしたりした翌日に発症した。母は「この風邪が治ったら4回目の『ダイナー』を観に行く」とうめく私の顔をまじまじと見て、ひと言、「藤原竜也アレルギーだからやめときなさい」と言った。「アレルギーじゃないから、エロいだけだから……」と私は泣いた。
 医者は私の発熱を「ただの風邪だね」と結論づけた。しかし、私の実感ではあれは風邪などではなく知恵熱だ。それほどエロかったのだ、『ダイナー』の藤原竜也は。まさかと思った人類は、1月22日にDVDが発売されるから買うかレンタルするかして観てほしい(ダイマ)。

 『ダイナー』での藤原竜也はボンベロという名前である。ボンベロは元殺し屋の天才シェフで、「ダイナー」という殺し屋専用の食堂で働いている。主人公・カナコはある日一身上の都合によりボンベロの店で働くこととなり、店に来る殺し屋の事情にボンベロとともに巻き込まれる。物語の大筋はそんな感じだ。

 エンターテインメント色の強い映画なので、繰り返し観ているとストーリーやキャラクター設定がけっこうがばっとしていることに気づくということは認めなければならないだろう。だが『ダイナー』の本髄はそこではない(個人の感想です)。監督の蜷川実花が「いちばんかっこいい藤原竜也を私がとらなければならない」と宣言したとおり、この映画は藤原竜也を美しくエロく撮ることにかけている情熱が尋常でないのだ。
 かつてこれほどまでに藤原竜也の腰の細さに気づかされた映画があっただろうか? 多額の借金を背負わされる藤原竜也はいても(@カイジ)、後光を背負って白く輝きながら登場する藤原竜也はいなかったのではないか?……

 映画のラストでは、「おれたちのリビドーが雨になったんだな!」と思うほどの大量の水がどこからか降ってきて藤原竜也をびしょびしょにする。濡れそぼった長髪のあいだからぎらりと覗く峻険な目を見て、私は「これだ」と思う。どちらかというと童顔な、人なつっこい貌にしつらえられたふたつの目は「おれを飼い慣らそうっていうつもりなら、いつだって舌噛んで死んでやる」とでも言うような激しい怒りを秘めている。彼はむかしからそうだ。少なくとも私がはじめて出会ったときには、もうすでにそうだった。

 はじめて出会ったとき、彼は沖田総司だった。
 9歳の私は彼を「沖田くん」として覚えた。彼に「藤原竜也」というべつの名前があると知ったのは小学6年生のころ。彼が『DEATH NOTE』の夜神月役を演って、クラスメイトの会話に「藤原竜也」という語彙が登場しはじめたあたりだった。
 しかし、沖田くんは私のなかでだいぶ長いあいだ沖田くんだった。大河ドラマ新選組!』の登場人物の最推しが沖田くんだったからだ。『カイジ 人生逆転ゲーム』のカイジや『るろうに剣心』の志々雄真実を見ても、まずは「あ、沖田くんががんばってる」と思い、それから「俳優さんの名前なんだっけ、あ、そうそう。藤原竜也ね」と思うほどだった。大学に入って映画を頻繁に観るようになってからきちんと名前を覚えたが、「沖田くんの」はあいかわらず接頭辞として「藤原竜也」にくっついていた。

 ちなみに、藤原竜也沖田総司を演じたのは22歳のときである。当時彼は俳優歴7年目。デビューの年は1997年。15歳の藤原少年の初舞台は、私がのちに「つまらない」と思う『身毒丸』である。

 彼が「沖田くん」だったころから、私は彼の意志の強そうな目が好きだった。芝居をしているときの彼はとくに激しいまなざしをしていると思う。まなざしが向けられる相手はその時々によって変わる。相手役の俳優だったり、台本の台詞の1行だったり、彼を観ている観客だったり、ときには世界そのものだったりする。そうして向けられる相手が変われば、当然まなざしの持つ意味も変わる。侮蔑、怒り、憎しみ……といった具合に。
 それから、彼の声も好きだ。あの声にはぜひ、正真正銘の非難をこめて「いやだ」と言ってほしい。押しつぶされてなおふり絞るような、かすれた、しかし力強い声は、この世のあらゆる不当をかたっぱしからはねつけるためだけに用意されたみたいだ。

 藤原竜也がよく命がけのシチュエーションに巻き込まれる役を引き当てるのは、たぶんたんなる偶然ではない。強いまなざしを持った人物が死ぬ目に遭わされて「こんな仕打ち許さない」とうめくようにつぶやくのをみんな聞きたがっているのだろう。
 彼の目は必ず気高い理想を見つめており、目のまえの腐った現実は決して受け容れない。彼が全身から放つ反逆の意志に、いつしか私はカタルシスを感じるようになった。そうして、あの尽きることのない憤懣がどこから湧き出してくるのか、いつも不思議に思っていた。

 もうすこしだけ『ダイナー』の話をしておく。
 『ダイナー』にはボンベロのボスにあたる人物が登場する。彼の名前はデルモニコという。故人として登場するのでその性格やバックボーンの詳細はわからない。ボンベロの店の奥まった部屋の壁にはデルモニコの肖像画が掛けてあり、妙な存在感を放っている。右手で軽く頬杖をついて眉をひそめた厳格そうな風貌は、いかにも殺し屋のボスという感じだ。
 映画を観ながら、私は「この顔、どこかで知っているぞ」と思った。けれど、鉄棒の逆上がりの次に人の顔を覚えるのが苦手な私には、ついに映画が終わるまで、それが誰だかわからなかった。

マキガワさん

 きっかけは、中学1年生のときに美術の資料集で見た1葉の金魚の写真だ。写真という芸術ジャンルにまったく興味のなかった私でも、その写真がすごいということはすんなりとわかるような気がした。
 なにしろ、色がすごいのである。金魚が、まるでよく晴れた日の真昼に咲いたチューリップのように赤いのである。私の目には、いまだかつて金魚がそれほど赤く見えたことはなかった。だが、その写真が証明していたのは、私の目以外の“目”がたしかにこの世のどこかに存在するということだった。誰かの目を借りて世界を見たいと思ったのはそれがはじめてだった。

 帰宅して、私はさっそく母に「今日美術の資料集で見た写真がすごかった」という話をした。母は夕飯の準備をしながら「なんて写真家の作品?」と訊いた。「マキガワミカさんだよ」と私は答えた。

「漢字が難しいから、ほんとうにマキガワと読むのかわからないけれど。『虫』っていう字の右に巻物の『巻』みたいな字を書いて、『川』をつづけたのが苗字。下の名前は果実の『実』に『花』という字だから、ミカと読むので間違いないと思う」
 すると母は頭のなかでちょっと文字を書いてから、急にあっはっはと笑いはじめた。
「それはね、ニナガワと読むんだよ。虫に巻く、みたいな字を書くんでしょ。ニナだよ。蛍が食べる『川蜷』を、逆から描いて『蜷川』」

 すごいすごいと褒めちぎっていたくせに肝心の名前を読み間違えてしまったのが恥ずかしくて、私はたちまちぐにゃぐにゃになった。
 そんな私に追い討ちをかけるように、そばで話を聞いていた父が「蜷川っていったらニナガワユキオの?」とくちばしをはさんできた。「たぶんそうでしょ」と母が答える。「親戚かな?」「娘じゃない?」「へーえ、娘が写真家やってるのか」「テレビかなにかでちらっと聞いたことある」「美術の資料集に載るほど活躍してるなんてすごいじゃないか」「まあ、親が有名人だからね」……

 頭上で交わされる両親の会話を聞いて、私は「誰かの娘の話なんかしてねえんだよ」といまにも怒鳴りそうだった。マキガワミカはニナガワミカの間違いで、しかもミカはユキオの娘で、写真家なのは親の七光りなんて、私はそんな話をしたいんじゃない。私はニナガワユキオなんて知らない。そんな人間の名前、姓どころか名も綴れない。そんなことより、マキガワミカの話がしたいのだ。金魚の話がしたいのだ。あの写真はすごい。それだけの直感がなんで伝わらないのだ。
 みんなばかだ。ちくしょうめ。こんな話、二度とするもんか。

 不幸だったのは蜷川幸雄だ。私はこの一件のために、顔も名前も知らない彼のことがめちゃくちゃだいきらいになってしまった。
 3年前にテレビで訃報が流れたときも、そのことについて友人のSが「すごい演出家だったんだよ」と解説してくれたときも、私は「知ったことか」と心のなかでつばを吐いていた。映画館で『身毒丸』を観たときに「つまらなかった」と思ったのにも、約10年前のマキガワミカ・ショックが影響していたのだろうと、いまなら思う。
 それにしても、あれほど人をきらいになることは人生で二度とないんじゃないだろうか。たとえ2度目があったとしても、きっとあれほどつまらない理由できらいになることはできないはずだ。

 夏。風邪を引いて、私は「なんにもできないときでもなんでもいいからなにかやっていたらどうにかなる」の教えを忠実に実行し、映画と芝居のDVDを観まくった。蜷川実花監督の文字に誘われて『ダイナー』を観て、藤原竜也沼へハマって……という時期だったので、とりあえず藤原竜也の出演している作品を全部観ようと思い、ローラー作戦を展開した。

 そういうわけで、私は2度目の『身毒丸』を観た。『身毒丸』は2度観ても、やっぱりつまらなかった。けれど、それは1度目に観たときとはどこか違う種類のつまらなさだった。人はときどき、面白いものが隠れているということをつまらなさで感じることがある。
 だが、このふたつの『身毒丸』を観た感触が違った違ったとどれだけ喚いたところで私が観たのは1年前に観たのと同じ『身毒丸』だったのだから、じっさいにはどこにも違いなどありはしなかった。蜷川幸雄が死に、同期のKが死に、Sに教えられた演出のなんたるかがようやく体に染み入ってきて、藤原竜也の腰の細さにも気がついた――そういういろいろの断片が寄せ集めによっていつのまにか私の“目”が変わっていたのである。まったくそうとしか言いようがない。

 DVDの特典映像には蜷川幸雄が映っていた。ちらかっていたすべての線がまとまって、私は「そういうことだったんだな」と思った。DVDを観終わったあと、隣にいた母に「次の研究発表の題材はこれにするよ」とつぶやくと、母は「前に観たときはつまんないって言ってたのに。なんか突然だね」と笑った。
 人類はこれと同じ言葉を、ベテルギウスがいつか超新星爆発を起こして、642年後にその光が地球に届いたときにも言うだろう。はるかかなたから飛んできた灰皿にとうとうしとめられたのだということは、おそらくしとめられた者にしかわからない。私は頭から血を流しながら回想をはじめる。結局、ものごとの起こりというやつはどこにあったのか?

 こうして、“伏線”はひとつの論文に帰結した。この論文もまたひとつの“伏線”となってやがては新たな帰結に至るのだろう。けれど、それがなんなのかはまだ知らない。あせって知りたいとも思わない。
 なぜなら私は文学研究者で、小説や戯曲を読解するのが好きで、それはつまり、混沌とした世界から伏線を拾い集めて、なにかしらの道筋が形づくられていることを指摘するのが好きだ、ということだからです。

 うまく書けただろうか。